2013/01/16 Category : エッセイ 自殺報道 何となく違和感を持ちながら、大阪の市立高校で起きた、バスケットボール部主将の自殺報道を見ている。 バスケット部顧問による<体罰>が、つまり、<殴った>ことが原因で自殺に追い込んだように報道され、「体罰を指導といえるか」「体罰は暴力か」という議論に矮小化しているように思える。体罰は指導ではないし、体罰は暴力である、ということは当たり前なのに、一部、「体罰は許される」、という価値観があることを恐れている。 体罰への<恐怖>や、殴られる<痛さ>が、自殺に追い込んだ原因とは思えない。もっと根深い社会のひずみ、偽善や責任回避、排他主義や利己主義が教育現場にも巣くっていて、その被害がこの主将の自殺という行動に現れたのではないのか。 顧問の、生徒に対する指導に、<個人の尊厳を踏みにじるような>態度はなかったのだろうか。現今の職場でいわれるモラルハラスメント(精神的暴力)と重なって見えて仕方がないのだ。 <仕事の最中に、次々と仕事を回し、作業の遅れを指摘する> <質問したら、「言わなくても分かるだろう」と、答えてもらえない> <チームのミスは全て押しつけられる。意見すら聞いてもらえない> <あいさつしても、自分だけ無視をされる> <自分が発言しようとすると、「おまえはしゃべるな」、と言われる> <自分の企画を、何も言うことなく、無視される> <失敗すると、ため息をつき、馬鹿にした態度で見られる>等々 こんなハラスメント実例の「上司と部下」を「顧問と生徒」に換えて想像すると、自殺した高校生の心に少し近づけそうな気がした。 [3回]PR
2012/12/29 Category : エッセイ 家族 昨年3・11大津波では、釜石市の小中学生たちの99.8%に当たる2921人が<奇跡的>に助かった。三陸地方はおおむね100年周期で津波に襲われ、「津波てんでんこ」、すなわち、津波になったらめいめいで逃げろ、という言葉もあるほど、住民の防災意識も高いと言われていたが、その言い伝えが生きていたのではない。防災教育の成果だった。 行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、人間の意識は減衰する、と群馬大学大学院教授片田敏孝氏は危機感を持っていた。教授の危機感、必死の呼びかけに釜石市が理解を示し、津波防災教育の活動となり、釜石の奇跡につながった。訓練成果は、子供の必死の避難呼びかけに、渋々応じた両親や祖父母など「家族」の命も結果的に救うことになった。人ごとではなく我がこととして考えるように仕向けた防災教育があってこその成果でもあった。 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312 子供は時に大人の忘れたものを思い出させてくれる。ふと目にしたのは、人が生きていく上で絶対に必要なものを考えさせる、夏休み企画を主催した僧侶のエッセーだった。 食べ物、空気、水、太陽・・・、家、洋服、お金・・・、ケイタイ、コンビニ、テレビ・・・子供の口から次々に出る項目でボードがいっぱいになったころ、「不便だけど、無くても大丈夫というものを消してみよう」と僧侶が言った。 自然や地球環境に密接なものだけが最後に残り、「自然を守ることは命を守ること」と結論づける作戦だった。 ところが、子供たちが最後まで残した一つに、「家族」という<予想外>の項目があった。生きる上で欠かせないものに、そもそも「家族」を挙げる大人がいるだろうか、と僧侶は自問した。そして「人の命は守られてこそつながる」のであり、「命の連なりをあらゆる観点から考えることこそ真の環境問題」と気付かされたという。 津波からの避難を呼びかけた子供にとって、家族は、自分の生存に関わる大切な存在だった。では大人は子供をどう見ているのだろうか。かけがえない子供であるはずなのに、快適で、便利で、いい暮らしを・・・、という生命に関しない泡沫の価値基準を当てはめて、子供の未来を考えてはいないか。結果、未来の子供たちの命を軽んじる方向を選択してはいないだろうか。 たまには、暮らしの中身に頓着しなかった昔の自分に戻って、つかの間でも、子供たちが感じる<家族>を共有したいものだ、と思う。 [3回]
2012/12/15 Category : エッセイ のど元過ぎれば 3・11大震災後一番恐れたのは、電源喪失により福島第一原発4号機の貯蔵プールが沸騰蒸発し、使用済み核燃料から大量の放射線、放射能物質が空中に放出されることだった。4号機は当時定期点検中で、原子炉圧力容器内のシュラウドと呼ばれる構造物の取り換え工事を完了しているはずだった。しかし工具関連部品の寸法違いから工程に狂いが生じ、工事完了時に抜き取るはずの大量の水が残っていた。このことが最悪の事態に陥ることを防いだ。http://digital.asahi.com/articles/TKY201203070856.html 大地震は、DSピット、貯蔵プールと仕切りにずれを生じさせ、隙間から大量の水が貯蔵プールに流れ込んだ。3月20日の放水まで、燃料の熱崩壊を防いだこの水がなければ、放水の前にプールは干上がって大惨事を引き起こしていた可能性があったという。 放射能物質の拡散は、首都圏に及び、日本の中枢機能は麻痺し、半径300km圏内の3千万人の人々は住む場所を追われていたかもしれない。東京電力も官邸もそれを知っていたようだが、私たちは「直ちに被害はない」と思わされた。<無用の混乱>を生じさせないためという名目での<情報操作>であろう。 現実に上記の大惨事が起こっていたとしたら、どの政党にとっても「原発即時停止」という選択肢しかあり得なかったのではなかろうか、と思う。報道に遠い4号機だが、危険が去ったわけではない。これから何年もかかるだろう使用済み燃料の取り出し作業の間、震度6以上の地震が起きないとはいえない。台風も竜巻もある。補強工事の確実性を担保するには、作業員の質も必要とされる。専門技術者の被ばく量も限界値に達していよう。貯蔵プールへは未だ仮設の配管で水を送っているのか、水が供給ができないような事態になれば、線量が高すぎて、人は近づけない状態に陥る。そうなればチェルノブイリ事故の10倍のセシウムが空中に放出される。風が首都圏に向えば、<戦争に負けた>と同じような、否、それ以上の壊滅的な打撃を受けよう。 偶然が重なって、最悪の事態を免れたこの事実は、震災1年後の今年3月、一部新聞に報道されたが、その後、尾を引く議論になってはいない。「のど元過ぎれば熱さを忘れる」というが、今回選挙の争点にもなっていない。 情報を出さない社会が責任をとらない社会を可能にしてきた。大衆を扇動もしやすい。目の前にある日本壊滅の危険性を伝えたり、人口が2千5百万人も減る、たった30年後の社会のありようを語る政党がないのが不思議だ。大衆は、希望ではなく比較で、「今よりまし」と旧体制を復活させた。 4号機が制御不能になったとき、多くの人が国外に逃げるだろう。しかし、逃げる中には震災後も原子力を推進しようとする利権集団側の人々が多く含まれているのだろうと、へそ曲がりの私には思われてならない。 http://www.youtube.com/watch?v=_TJo0HLFR_s&feature=player_embedded http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=UNZIvgkWHzQ&list=PL7003EE69A4EAF7FE#! http://www.youtube.com/watch?v=W-VqzMo1PZQ&list=PL7003EE69A4EAF7FE&index=2 http://gyao.yahoo.co.jp/player/00908/v12193/v1000000000000000401/?list_id=1793444&sc_i=gym082 [3回]
2012/12/09 Category : エッセイ 技術より心術 平成24年度から「武道」が中学校で必修化された。場所もとらず、道具も費用もいらず、一人でもできる空手こそ、教育の場には向いていると蔭ながら思ってはいたが、最悪の事件が起きてしまった。 大学道場で空手の練習中に男性指導者を頭蓋骨損傷で死なせたとして、S大学3年の主将が逮捕された。指導方針を巡ってトラブルになり、OBでもある指導者(77歳)から張り手を受けた直後に回し蹴りをし、他の学生の見る前で、死亡させたというもの。・・・ 空手をライフワークの一つとしている私は大変ショックを受けた。 亡父は日本本土に初めて沖縄空手を紹介した船越義珍の門下生で、特に三男の船越義豪に鍛えられた。父は教えられたことをそのまま弟子たちに伝えた。生死に関わる武術の教授に「体罰」は絶対にあってならないと教えてもきた。だから私も稽古で、先輩から張り手を受けたような記憶はない。基本技術の習得過程で、腕を払われたり、突かれたことはあっても、それなりに加減されたもので、相互に「指導」として了解ができる範疇でのことだった。 助言や叱責が行き過ぎて、過剰な指導や体罰と称する暴力的行為に及ぶ事例は空手に限らず過去から聞くが、20歳も過ぎた人格ある人間にとっては悪害である。 船越義珍の空手道二十訓の一つに「技術より心術」があるが、それは「勝ち負けにこだわり過ぎる愚かさ」を教えている。 なでしこジャパンが2011W杯で世界一になった時、敗れたアメリカのワンバック選手が澤選手に駆け寄り「おめでとう。あなたを誇りに思う」と称えた。今年のロンドンオリンピック決勝では澤がワンバックに駆け寄った。 「技術より心術」の訓は、澤やワンバックの心情にこそ近いものがある。 武術の競技試合で勝ったと天狗になってもそれは、制約された条件下の相対世界のことであり、消えていく強さだ。心術とは、姑息な心理的駆け引きの意味ではないのだ。弓道では的に当てようとする心さえ「捨てろ」と教える。場所も時も人も選ばず力を出し切るための、「心を練り上げる」武術の意味が、相対世界の上にあることを指導者は教えなければならない。 空手指導者として自負している人たちには、今一度、ワンバックや澤選手の心情に思いを馳せてほしいと思っている。 [7回]
2012/11/26 Category : エッセイ ミニ仏壇 妻の実家は、築後20年しか経っていないので、両親が亡くなった後も姉弟が集まれるよう、そのままにしておくことになった。誰もいなくなった家には、仏壇と新仏の遺影が飾られているが、時折訪ねて、手を合わせるだけでは可哀想だし、私の両親と一緒に祀るのもおかしいからと、妻は、別に小さな仏壇を購入した。高さも40センチほどで、私の年代には“ミカン箱”といえばイメージがわく大きさだ。居間のテレビ台の上に置いているが、ちょっとしたインテリア家具のようで違和感はない。 実家の庭の菊を刈り取ったのは二十日も前だが、自宅マンションに持ち帰った今も、ベランダに置いたバケツの中で、元気に花を咲かせている。秋が深まり小さな花しかつけられなかった菊も、捨ててしまうのは忍びないと一緒に持ち帰った。室内の花がしおれては、ベランダの花を移し替えている。大きな菊は大きな仏壇に、小さな菊はミニ仏壇に。ミニ仏壇に飾る花は小さいほど似合う。否、小さくなければならないとさえ思う。 ふと、豊かになるということは、はみ出したものにも光を照らすことではないか、と今の世相を対比させた。モノの大小、強弱、緩急それらが混在してこそ健全な社会といえる。 グローバル化は社会の趨勢だが、数十年前に比べ何が豊かになったというのか。失った豊かさの方が大きくはないのか。未来の資産を食いつぶしてまで、経済的豊かさを求める時代は終焉した。格差社会の進行、コミュニティの崩壊を前に、一辺倒の経済成長とは別の価値軸がようやく動き出している気がする。6次産業化もその一つの流れだと思う。 「ミニ仏壇」という施策を掘り起こせば、今は捨てられているだけの「小さな花」も資源として活躍の場所を得る。花屋では決して売っていない小さな菊が、我が家のミニ仏壇を見事に飾っている。 [4回]