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碧濤のひとりごと

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若者の未来を憂う

 2040年には日本の人口は1億人になるという。2010年からの30年間で人口は2500万人、20パーセント減ることになる。65才以上の絶対数はそれほど変わらないので、高齢者割合は、今の4人に1人から3人に1人と高まる。ちなみに1980年の65才以上人口は総人口1億1700万の9%、10人に1人に満たなかった。
 高齢者と若者の消費性向は何が違うのか。若いころを思い出して今と比較すると、新しいものを次々に欲しがらなくなったな、と思う。人の目もあまり気にしなくなっているから、服装の流行を追うこともない。企業がモデルチェンジをいくらしようと、今使っているモノに不便を感じない限り、CMの口車に乗ることもない。だから、高齢者が相対的に増えている20、30年後は、消費に製造が追いつかないような、かつての経済成長があるとは思えない。
 2040年に60~64才になる人たちは、現在は30才台前半の若者たちだ。この世代は非正規雇用層も含め、結婚しない(できない)層が増えているという。正規雇用され、家庭を持ち、未来に夢を持っている人がどれほど含まれているのであろうか、と思う。2040年、少子化はいっそう進み、彼らを支える世代がさらに先細りになっているだろう。そんな世界に原発が必要とも思えない。
 今もそうだが、社会的弱者に手をさしのべる余裕がなくなると、負の連鎖を産む。生活水準の劣悪さが犯罪を誘発し、収容費需要を生むように、公的保障の削減が新たな公的保障の需要を生み出す。教育、福祉、厚生などのつながりあう社会的損失は計り知れない。自分の老後を想像できない(しない)若者世代の30年後の厳しさは、高齢化社会の弊害が言われ出していた今から30年前の我々世代の比ではない。
 臨時国会所信表明で野田総理は「行政の手が行き届かないところにも、社会のぬくもりを届ける『新しい公共』が、社会に根付くための環境整備にも努めます」と言ったが、行政の手が行き届かないところができてしまったのはなぜだ。「明日に希望を持てない若者たちが数多くいます」とも言ったが、そんな社会を造るのに手を貸したような労働者派遣法をつくったのと同じ構造に見える。所信に語られなかった<利権構造の解体>こそが未来を救う。
 解散総選挙になっても、しばらくは政党乱立時代が続くだろう。党利党略、利権に絡められ、マニフェストを違えなければ動けないのなら、動けない案件は「党議拘束」を外して、個々の政治家の良心に訴えた方がまだ、<国民の総意>となるのではないだろうか。そうでもしない限り、所信表明のための所信表明で終わるような気がする。

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最低限の責任

 300人以上の死者を出したのは「軽はずみ」な発言のせいだとして、予知に失敗したイタリアの地震学者が「禁固刑」を課された。
 地震予知は不可能に近いともいう。専門家といわれる社会的地位のある人たちの「軽はずみ」な発言は、影響の大きさからも避けるべきなのは当然だ。「専門家は誰も発言しなくなる」と判決を批判するのではなく、学識経験者たちは、これを他山の石とすべきである。
 原発事故後の我が国にも、社会的地位のある人たちに無責任な発言、厚顔無恥ぶりが目立つ。以下のようなニュースが本当だとしたら、限定的にしか報道されない今の社会も不気味だ。
 9月5日の東京新聞によると、川崎市の小学校給食で、放射性セシウムを含む冷凍ミカンやリンゴ缶詰めを使うことについて、市長は「危険の中で生活していることを子供たちが知ることが大事だ」と語ったという。
 「一般食品」に含まれる放射性セシウム基準値は、4月以前の5分の1、1キログラム当たり100ベクレルに改定されたが、この値は、IAEA(国際原子力機関)で「放射性セシウム濃度が1キログラムあたり100ベクレルを越える場合<低レベル放射性廃棄物>として厳重な管理を行わなければならない」とされている境界値である。
 食材は基準値以下であり、その食材のみを食べ続けるわけではないから、「心配ない」と言う人もいるが、ホットスポットは至る所にあり、知らずに累積被ばくの危険性もある。食材以外にも、水や舞い上がるほこり、吸い込む空気からも被爆を受けるのだ。被ばく量には障害を引き起こす限界値(しきい値)がないから、累計値が高まれば危険性はそれだけ増す。今は潜在化していても、被ばく症状はそのうち顕在化してこよう。基準値を下回ってさえいればいいのではない。大人も子供も一緒の基準値だからこそ、大きく影響を受ける子供が食べるものは、汚染されていない食材を選択するに越したことはない。子供の被ばくには安全な基準値はないと考えるべきだ。
 市長は「このレベルでビクビクする教育をすることが間違い」とし、「道路では、すれ違った人に刺される可能性もある。だから人とすれ違うな、と教育しますか?」と発言したという。回避できる汚染食材を、回避できない突発事件と同じ秤にのせて議論はできまい。
 現今の無責任社会では、今後増えるであろう被ばく患者の救済に対しても無力であろう。「原発放射能と特定できない」、「食材のせいとは言えない」と責任回避されるだろうことは、容易に想像がつく。
 ならば、少なくとも、管理できる学校給食くらいは、細心の心配りで原発事故以前の摂取量に抑えるべきだ。それは、子供たちに対する、大人の最低限の責任であろう。

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団塊世代の使命

 我々の団塊世代も年金があたる年代に入ってきたが、今の高齢化社会の有り様を予想して、若いころから備えてきた友人がいる。5年後、10年後の年金は当てにしていないし、制度の完全破綻さえ想定済みと彼は言う。外国暮らしに備えて語学勉強もしているし、異国の友人との付き合いも欠かさない。貯金も各国通貨に分散している。
 それに比べ、自分の体たらくはどうしたことだ。年金があれば何とかやっていけるだろうと、心のどこかで、根拠もないのに安穏と思っている。否、堕ちるときは日本人みなが堕ちればいいのだ、と少し投げやりに思っているのかもしれない。先日の大学卒後40年の同期会でその感を深くした。おそらくは同じ世代の多くが、これからも日本は安全だろうと、根無し浮き草のような感覚で毎日を生きるようになってしまっているのではないのか。
 一部とはいえ、様々な世代や階層の日本人が世界で活躍していてくれるから、かろうじて日本の存在感を示してはいるが、外交も内政も政治の威信は地に落ち、近未来の設計図さえ描けないでいる日本。財界ははじけたバブルの残滓にしがみつき、政官界指導者層は財界にすり寄り、様々な専門技術者や哲学者・文化人も含めた国民の7割もが求める反原発社会へ向かう決意さえ示せないでいる。
 先進国と言われるようになり、見習うべき先行事例は他の先進国にはほとんどないと考えた方がよい未来だからこそ、情報公開を進め、多くの国民の意見を聞くべきだ。政策決定に至る従来手法そのものが機能しなくなっているのは、進めた政策結果の現今世相がよく示している。生命を守ろうとする多くの国民の<本能的な直感>を<ポピュリズム>と片付けてはならない。
 恩師の一人は、「今の日本の閉塞感を変えてくれるのは君たち団塊世代のような気がする」と言った。本当はそうあらねばならない。一部の指導者に未来を託す時代は終ったのだ。団塊世代の一市民として何かしなければならないのだ。バブル時代のおこぼれを、たとえ気づかぬままでも、それを掠めた世代の一人として、小さな行動でも起こすべき時なのだ。地に根の生えた生き方で...。
 老い先を次世代のためにどう使うのか。人は使命の中に生き甲斐を見る生きものだ。退院間もないせいか恩師の声は少し弱々しく聞こえたが、そこには何か祈りにも似たメッセージが込められているような気がして、私の胸は共鳴するのだった。

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大きなうねり

 3月から始まった官邸前の金曜デモは、かつての安保闘争のイデオロギー対決とは異質のものだ。政治家や知識人の一部が何と理屈をつけても、普通人の感覚で<命より大事なものはない>ということで結集しているからだ。
 300人規模で始まったデモは、6月に入り参加数が急上昇した。7月29日の国会包囲デモは主催者発表では約20万人という。警察発表が1万から2万人というので、10倍の差があるが、数え方の違いでは済まない意図的なものを感じる。外国が大々的に伝えているのに、デモの全容を伝える国内ニュースが少ないのも、何らかの力が働いているからと勘ぐらざるを得ない。
 利権にかかわる者は、参加数をなるべく少なく言い無視したいことだろう。脱原発運動は一時的な盛り上がりで、原発の必要性は全く失われていないとしたいことだろう。
 原発がないと燃料代が割高になり、電気料は上がるというが、電気料は原発施設の巨額な資産価値が上乗せされ、定率利潤が加算された<総括原価>を販売電力量で割り算しているからもともと高いといわれる。廃炉にすれば資産価値が減るので、電気料は下がる要因となるし、定率利潤も落ち込むから、人の命より会社の存続・利権を優先する電力会社としては受け入れがたいのだろう。
 電力会社が計画停電に踏み切って原発の必要性を訴えても、妥協してはならない。福島原発のような<人災>は起き得る事態であり、万が一にもあってはならないからだ。
 経済成長する時は電力需要も増えるから、化石燃料が手に入らないなら原発稼働はやむを得ないという意見もある。しかし、連日30度を超える猛暑の中で停電することなく乗り切っている事実は、原発なしでやっていけることを示唆する。天然ガス等入手先の多様化、自然エネルギーの自家発電、夜間電気の蓄電化、時間変動型料金制度などの工夫が相まって、電力変動の平準化を促進するだろう。穏やかな経済成長分くらいの電力需要増は飲み込める余地があろう。
 国は脱原発社会の未来図を示さねばならない。それが政治の責任である。
 我が国に「大きなうねり」が起きようとしている。「おとなしすぎる日本人」を揶揄する外国報道もあったが、官邸前に集まった人だけが、脱原発を言っているのではない。デモを支援する声なき声が後ろに控える。真の民主主義の萌芽としたいものだ。
 政治決着の仕方はいつも中を取る、折り合いがある。「20年後の廃炉を目指せ」では、何年経っても止めることはない。国民が、「すぐに止めろ」という声を出し続けない限り、国は脱原発には向かわないだろう。「すぐに止めること」と「すぐに止めろと言うこと」は違うのだ。
 息の長い運動になる。国民の傍観と無関心が拡がらないことを祈っている。

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イトグチ

 官僚の掌中にあるように見える政治家が、かくも多い時代となった背景は何なのだろう。現場実態を知らない政治家が多いのもその一因ではないか、と思う。
 複雑化する都市型社会の施策には縦型思考は通じない。たとえば、インフラ整備。かつて、モノが絶対的に不足していた時代は整備に伴う負の面は無視されても社会的な反発は少なかった。必要性も経済性も単純に縦型思考で説明できたからだ。
 高度成長期、そこに、公害問題が顕在化し、都市間格差の問題が起き、核家族化や少子高齢化などの現象が進んでくるに従い、施策相互の調整機能や調整手法に力点が移り、相対的に官僚の力が増したと思える。
 今や、一政治家が現状打開の方策を勉強したところで、実現するためのハードルを次々と官僚から突きつけられると、手も足も出ず、結局は官僚の言いなりにならざるを得ない、という事態まで現状が追い詰められているのではないか。
 本来ならば官僚の<御進言>には、逆に政治家が現場実態を突きつけ政策を誘導していくのが、政治家の仕事であろう。
 国民が真実を隠匿され国に欺かれているように、政治家も官僚の手玉に取られていると思われてならない。
 国は中央政府として、安全保障、外交、金融などのマクロ政策に重点を移し、現場に密着した教育や福祉、子育てなどを地方政府として自治体が機能分担すれば、国会議員は国策に、地方議員は自治問題に、より深く向き合えるはずだ。
 先日、派遣職員として働く義妹の娘に久しぶりに会った。成長した23歳の彼女の気配りや話しぶり、考え方などを聞いていると、こんな若者が、なぜ非正規雇用職場でしか働けないのか不思議だった。一般市民がつましい生活さえもできないのは、元を辿れば、結局は政策の決定過程に問題があるからだろう。夢ある未来へのイトグチはどこにあるのだろうか。まずは官邸前に毎週金曜日集まりだした脱原発の輪が、全国各地に飛び火し、国を動かす原動力になることからと、心のどこかで期待している。

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