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碧濤のひとりごと

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指導者の器 その3

松涛連盟首席師範で帝京大学空手道部師範の香川政夫氏による植草歩さんへのパワハラ行為、「暴力的指導はなかった」と、帝京大学が結論を出したようだ。 https://this.kiji.is/764812974312456192?c=62479058578587648  報告書の全文は見つけられなかったが、指導の様子を想像できる動画が紹介されていた。 https://www.youtube.com/watch?v=6G49azjgvsc&t=44  この動画を見る限りでは「外国人選手を想定した組手稽古」というには無理があろう。前後へのステップで陽動するスポーツ空手特有の動きに、竹刀使用は馴染まない。彼女以外にも複数人が怪我をしているというから、危険な指導方法であることは明らかだ。  本来、実戦を想定すれば手数は少なくなるから、素面での対得物稽古は、一刀一打を基本にする。手数が多ければ防具が必要となることは剣道の指導稽古をみても明らかだ。指導する側もされる側も防具をつけて怪我を避けているということだ。  今回の指導も「恐怖心克服のため」として竹刀にこだわるならフェイスガードをさせるべきだった。間合いの訓練なら身体の大きな男子部員に相手させればよかったはずだ。威圧的な雰囲気、エキサイトした指導の下では、竹刀は「未必の故意」にも繋がりかねない危険な道具に化すものだ。  怪我をさせまいと思いやり、後輩や弟子に対しても敬意を払うから「空手は礼に始まり礼に終わる」のである。松濤館後継者と期待されながら早世された船越義豪先生は「正しく 強く」と言われた。強さの前に正しい稽古がまずあるのだとの訓えだ。大東流合気柔術師範の山本角義先生からは「教える者は強くなくても、正しく教えていれば強い者は必ず出てくるものだ」とお聴きした。  動画に見る竹刀稽古、私には義珍先生の訓えが「曲解」されているとしか思えない練習方法に映った。そして、下のURLインタビューの記事を見て思うのは、言うことと指導方法の矛盾だ。かつての大学空手部に散見された「先輩は絶対」のシゴキカラテから昇華しきれない「曲解」の根深さである。 https://news.yahoo.co.jp/.../fabe8741fa2c29efdd3ff7f2064e... 「空手は礼に始まり礼に終わる」。松濤館空手を学ぶ者はみなが知っている。しかし、知ってはいるが分かっている者はどれほどいるのだろうか?「礼」に満腔の思いを込め、虚飾を嫌い、作為を超え、本来の自分を求めていく。空手に「道」を付け「空手道」というならそういう稽古でありたいものだ。

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