2017/11/23 Category : エッセイ 組織と個 モンゴル力士なしに相撲界が存続できないほどになっているのに、モンゴル本場所がないのが不思議に思えていた。興行収支が成り立つかどうかの話ではない。道義にもとる、感謝を忘れた傲り団体に相撲協会が陥っているのではないかという疑念があったからだ。 同時に、勝ちさえすれば親方といえど力士に文句を言わ(え)ない風潮が、相撲道という「道」を汚してきたのではないかとの疑念もあった。今回は、横綱日馬富士が貴ノ岩に暴力をふるったことに対し、貴乃花親方が警察に被害届を提出したことでさらに疑念を深めた。 事件の基点となったモンゴル力士会は20年ほど前設立された親睦会だが、当時の設立意義を越え、いまや「李下に冠を正さず」の疑いをかけられたら角界が揺らぐほど、番付上位力士にあふれる。自浄能力があった相撲協会なら、勝負世界の常識を超えた懇親会のありようを、事前に厳しく指導してきて当然だったのではないか。これまでも傷害致死で逮捕・追放された親方が出たり、泥酔暴行事件を起こし引退に追い込まれた横綱が出たりするたび、相撲協会の自浄能力が問われてきたが、協会の装丁をかえても金魚の糞並みの道義のままでは、利権の病巣もとれないだろう。 道義と利権。森友・加計問題に揺れる政界・官界は言うに及ばず、東芝、日産自動車、神戸製鋼所など大企業でも組織が巨大化し自浄能力が失われてしまう例は枚挙にいとまがない。洋の東西を問わず利権が絡むと組織は劣化しやすいものだ。日本社会がこうも劣化してしまうと、へそ曲がりの私には、どんな組織でも一石を投じる「貴乃花」が必要なのだと思えてしまう。 柔や剣、空手など武術の世界も語尾に道(みち)を付けたがるが、本来、道と組織とは相いれないもののように思える。仏教語の「三宝」にいう<法>を道に例えれば、道は師<仏>との出会いから始まる。師に道を習い、やがて師に並んで歩き、いつか師を越えて進んでいることもあるだろう。その過程で歩みに遅滞が生じるとき、折れそうになる心を力づけ、支えてくれる環境<僧>があることは大事だ。それは支えあう道友であったり、励ましてくれる家族であったり、目から鱗の先人の訓であったりする。結局「道」とは個の世界に始まり、個の世界に帰結するものであろう。 組織の拡大は利権と結びつきやすいが、利権とはつまるところ、金であり地位であり名誉である。道の世界では「捨てよ」と教えるものだ。 貴乃花への批判が大きくなるほど、組織の中でたたかう、道を求める個としての貴乃花が思われてきてならない。事件の根がどこにあるのかは想像するしかないが、報道は組織批判から何やら個の批判に向けられて見える。だからなおさら、こういう親方を排除してはならないとへそ曲がりには思えてくるのである。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword