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  <title>碧濤のひとりごと</title>
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  <description>生活に緊張感を持たせるため、月に一度ほどブログを更新しています。

最近は腹立たしくも悲しい出来事が多すぎ、
そんな思いからのブログです。</description>
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    <title>指導者の器　その３</title>
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    <![CDATA[松涛連盟首席師範で帝京大学空手道部師範の香川政夫氏による植草歩さんへのパワハラ行為、「暴力的指導はなかった」と、帝京大学が結論を出したようだ。 https://this.kiji.is/764812974312456192?c=62479058578587648 　報告書の全文は見つけられなかったが、指導の様子を想像できる動画が紹介されていた。 https://www.youtube.com/watch?v=6G49azjgvsc&amp;t=44 　この動画を見る限りでは「外国人選手を想定した組手稽古」というには無理があろう。前後へのステップで陽動するスポーツ空手特有の動きに、竹刀使用は馴染まない。彼女以外にも複数人が怪我をしているというから、危険な指導方法であることは明らかだ。 　本来、実戦を想定すれば手数は少なくなるから、素面での対得物稽古は、一刀一打を基本にする。手数が多ければ防具が必要となることは剣道の指導稽古をみても明らかだ。指導する側もされる側も防具をつけて怪我を避けているということだ。 　今回の指導も「恐怖心克服のため」として竹刀にこだわるならフェイスガードをさせるべきだった。間合いの訓練なら身体の大きな男子部員に相手させればよかったはずだ。威圧的な雰囲気、エキサイトした指導の下では、竹刀は「未必の故意」にも繋がりかねない危険な道具に化すものだ。 　怪我をさせまいと思いやり、後輩や弟子に対しても敬意を払うから「空手は礼に始まり礼に終わる」のである。松濤館後継者と期待されながら早世された船越義豪先生は「正しく　強く」と言われた。強さの前に正しい稽古がまずあるのだとの訓えだ。大東流合気柔術師範の山本角義先生からは「教える者は強くなくても、正しく教えていれば強い者は必ず出てくるものだ」とお聴きした。 　動画に見る竹刀稽古、私には義珍先生の訓えが「曲解」されているとしか思えない練習方法に映った。そして、下のURLインタビューの記事を見て思うのは、言うことと指導方法の矛盾だ。かつての大学空手部に散見された「先輩は絶対」のシゴキカラテから昇華しきれない「曲解」の根深さである。 https://news.yahoo.co.jp/.../fabe8741fa2c29efdd3ff7f2064e... 「空手は礼に始まり礼に終わる」。松濤館空手を学ぶ者はみなが知っている。しかし、知ってはいるが分かっている者はどれほどいるのだろうか？「礼」に満腔の思いを込め、虚飾を嫌い、作為を超え、本来の自分を求めていく。空手に「道」を付け「空手道」というならそういう稽古でありたいものだ。]]>
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    <category>エッセイ</category>
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    <pubDate>Sat, 22 May 2021 22:09:43 GMT</pubDate>
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    <title>指導者の器　その２</title>
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    <![CDATA[全日本空手道連盟理事で選手強化委員長の香川政夫氏が、竹刀を用いた稽古で植草歩選手の目を負傷させた事件、植草選手側は当初刑事告訴も視野に入れていた。彼女のブログによると、竹刀稽古の危険性については、昨年12月以降、全空連理事や強化委員会のスタッフに相談していたが、事態が動き出すのは、ＪＯＣの通報・相談窓口に相談した３月12日以後だったようだ。そこからの進展は速かった。<br />
　３月31日の全空連の倫理委員会で「竹刀で目を負傷した」との認定を受け、４月９日の理事会で香川氏の処分を決めた。先立つ７日付で香川氏は理事と強化委員長辞任の意向を示したが、強化委員長の辞任については受理されず、より厳しい「解任」処分となった。植草選手側は理事会での決定を受け入れて刑事告訴には至らなかった。<br />
　香川氏が辞任の意向を示す際、植草選手に対し「細部への気遣いが及ばなかったことは申し訳なく、大変悔やまれるばかりです」と謝罪する文書を発表していたが、詳しい内容が不明で何を謝罪し悔やんでいるのか分からなかった。9日の理事会出席後の報道対応を見ても「不徳の致すところ」以外の反省の弁は読み取れなかった。以下、報道対応の一部引用である。気になる箇所を付番①－⑥、【】書きで示した。詳しくはネット検索されたい。<br />
－現在の思いは <br />
＜香川氏＞　報道で言われてる①【竹刀で目を突いたとか、故意でけがをさせたとか、そういったことは決してありません】。10数年、彼女と一緒に五輪を目指して稽古をしてきた。今回こういう結果になったのは残念で、私の不徳の致すところ。彼女には五輪でぜひ金メダルを取って、②【こういうことを乗り越えて強い選手に、また心身共に立派な選手になってもらいたい】。残されている私の教え子もいるし、ナショナルチームの方もいます。どうかこれまで同様、選手のために力をいただきたい。③【植草選手は私の手元から離れましたが、それも彼女が大人になる第1歩だと思います】。これからも引き続き支援をたまわれば。 <br />
－竹刀の練習はいつから <br />
＜香川氏＞　年が明けてからだったと思います。④【そういう（行き違いが）重なった部分が、私も細心の注意を払って寄り添ってあげられなかったことが悔やまれ仕方ない】。空手は格闘技。受け切れなかったら目や鼻や歯に当たったり、骨折や脱臼もする。我々の空手はフルコンタクトではなく寸止めだけれど、コントロールしていてもやむを得ない時があり、けがはつきもの。そういうところで、⑤【外国人対策として私のアイデアで竹刀を用いて稽古をしました】。外国人選手は思い切って突いて蹴ってくる。日本選手も蹴られてダウンさせられることが多々あった。植草選手も試合で脳振とうを起こしたこともあった。⑥【何年か前には沖縄で目に当たって骨折し、ドクターストップで棄権したこともあった。今回ブログでは失明の恐れがあるとの本人の言葉もありましたので、案ずるならきちんとドクターの判断を踏まえて練習に励み、試合に出てもらいたい。親心ですが、そんな風に思っています】。<br />
　手足の長い外国人対策なら体の少し大きい男子選手に代わればいい話だ。「竹刀で目を突いたのではない」なら、理事会の「竹刀で目を負傷した」という認定に反論すべきだ。この会見に、失明の可能性のある竹刀稽古の反省などまったく見られない。<br />
　私なりに【】書きをつなげて理解すると、「竹刀稽古は（顔に伸ばした竹刀に偶然目が当たっただけで）目を突いたわけではない。竹刀を使うのは手足の長い外国人対策のためで、実際外国人の攻撃が目に当たって骨折した選手もいる。ブログを見て本人の失明への懸念を知った。私の親心を彼女に理解してもらえなかったのが残念だ。今後は医者の判断を踏まえて練習し試合に出てほしい。」 となる。つまり、香川氏は指導手段として竹刀を使うことに間違いはなかったとして、これからも竹刀指導が続くのだろう、と読み取れた。<br />
　理事会には「竹刀で目を負傷した」ではなく「突いた竹刀が目に当たって負傷した危険な行為」と処分の具体的根拠を示してほしかった。流派寄せ集めの団体だからこういう記述になるのかも知れないが、武道世界は政治の世界とは違う。武道に日本文化を見る世界の目がある。＜泣いて馬謖を斬る＞の喩えはこの人に相応しくないかも知れぬが、全空連はもっと筋の通った対応をすべきだったと思う。某大アメフト「悪質タックル」事件を思い出す。植草歩さんの勇気ある告発が無駄に終わらないことを祈るのみだ。]]>
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    <category>エッセイ</category>
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    <pubDate>Tue, 13 Apr 2021 20:16:47 GMT</pubDate>
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    <title>指導者の器</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="font-size: 16px;">　数日前、92年バルセロナ大会の男子柔道金メダリスト古賀稔彦氏が53歳の若さで逝去された。04アテネ、08北京大会女子金メダリスト谷本歩実さんを育てたことでも知られる。人の役に立つ柔道家を育てたいと町道場を開設し、指導に医学的な視点を採り入れたいと大学に入り直し、40歳で医学博士号を取得したというから頭が下がる。彼の逝去を惜しむ記事を見ていると、本当に強い指導者は優しい人でもあるのだなあ、と思った。<br />
　しかし、強い選手が必ずしも良い指導者になるとは言えないようだ。古賀氏の訃報と時を同じくして、空手指導者の不祥事ニュースが飛び込んできたからだ。東京五輪の組手女子選手が、選手強化委員長から、防具を着けていない顔面を竹刀で突く危険行為を受けたという。彼女は、失明の危険性を訴え、竹刀に緩衝材を付けるなどの対応や練習中止を求めたが、選手強化委員長に受け入れてもらえず、実際に目を負傷したこともあったという。経緯については被害選手のブログに詳しい報告がある。<br />
　組手練習の一環とはいえ、竹刀で素の顔面を突くというあまりに危険な方法に呆れ返る。もともと空手を指導するのに竹刀など不要だが、一歩譲って、「女性に直接触れないセクハラ防止上の指導のため」なら、扇子一本に代えればいい話だ。竹刀よりよほど人間らしい接し方ではないか。 　この選手強化委員長が組織最高指導者の一人であり、さらに同じ松濤館系の大学空手部で学んだと聞くと尚更のこと腹立たしい。学生なら温情の余地もあろうが、何度も優勝を経験しながら65歳にもなって武道の何たるかを知らない空手指導者との誹りは免れないだろう。要職に伴う責任は重い。船越義珍先生がご存命なら、即刻破門の案件であろう。<br />
「稽古着が白いのは、血が滲めばすぐに分かるから、怪我を隠す弟子をいち早く発見する意味もあるのだ」と聞かされて私は育った。戦前、松濤館の船越義豪師範は、体調を崩して稽古に参加した学生の、普段とは違う様子を見抜き稽古から外れるように指導されたという。厳しい稽古の裏には深い思いやりの心がなければならない。義珍先生が、大学生を中心に教えたのも、「技術より心術」を体現するのに、常識ある指導層としての学生の未来に期待されたからであろう。勝負を左右する「技術」にこだわることより、戦いを避けるための「心術」を、激しい稽古の中で学ぶ重要性を期待されたという意味だ。<br />
　低俗な「根性」とか、危険すぎる「緊張感」は強制して植え付けるものではない。自ら工夫し、自らに試練を課していく中で自ずと育つものと思う。指導者の叱咤激励はそのための範囲に留まるべきものだ。なぜこんな低俗な指導者が生まれるのか。空手界の不祥事に触れるたびにやりきれない思いが残る。世界中に知られるようになったオリンピック空手ゆえに、この指導者を他山の石として組織全体を見直してほしいものだ。本当に強い指導者は優しい人なのだ。</span>]]>
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    <category>エッセイ</category>
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    <pubDate>Tue, 30 Mar 2021 01:24:37 GMT</pubDate>
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    <title>マイナンバーカード</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="font-size: 16px;">　８年ほど前、U町に住民票を移した。一年後に札幌に戻ったとき世帯合併の手続きを失念し、一つ屋根の下で妻とは別世帯になってしまった。日常生活の不便はないし、手続きに役所に出向くのも面倒でそのままにしていた。妻に収入がないから保険料が若干安く済んだ。罪悪感も少しあって、医療費控除の確定申告時に、区役所にも足を伸ばし一つ世帯に戻すことにした。<br />
　比較的空いているはずの平日の午後のはずだったが、マイナンバーカード（略称：マイナカード）申請の窓口が混み合っていた。この３月からカードが健康保険証としても使えるようになったからだろうか。2016年の「マイナンバー制度」の導入から5年、20年1月に15%だったカード交付率は、昨年度の一人最大5000円還元するという、「マイナポイント」事業の効果でようやく25%に達した。しかし、先着4000万人を見込んだマイナポイント申込者はいまのところ1300万人、この3月の締め切りを9月に延ばすようだが、令和4年度末で100%を目指すカード交付率はどこまで伸びるのだろうか。 <br />
　マイナカードのために、これまで８千億円が投じられているが、そんなに投じなくても、<strong>国会議員、高級官僚が全員マイナカードを持ったと公表できていれば、一挙にカード普及率は高まったであろう</strong>。国民の血税の無駄遣いに思えるのは低級国民の僻みであろうか。 <br />
　ワクチン接種などの医療・医薬記録とマイナンバーをひも付けて管理するシステムをめざすのは省力・時短の面で十分理解できる。韓国では、朴正熙政権時代、北朝鮮のスパイを割り出す必要があると国民統制を強めたが、電子化の結果、コロナ給付金は2週間で97%支給済みという実績に結びついた。<br />
　「マイナンバー」は現在のところ税、社会保障、災害対策でしか使われていないというが、運転免許証の一体化、スマホへのマイナカード機能搭載が予定されている。納税記録、住所、電話番号、金融機関口座、クレジットカード情報など、生活の様々な場面と紐付けされれば、「管理体制の信頼構築」は重要な政策課題になろう。<br />
　マイナカードを取得していない人の約35%は個人情報の保守に疑念を持っているという。一旦カードを持ってしまえば紐付け情報の拡大に抵抗は難しい。隠す情報もないが私もその一人である。政治家や高級官僚に対する信頼が揺らぐいま、マイナカードの導入に理解を求められても「ハイそうですか」とはいかない所以である。</span>]]>
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    <category>エッセイ</category>
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    <pubDate>Fri, 05 Mar 2021 01:12:48 GMT</pubDate>
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    <title>組織と個</title>
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    <![CDATA[モンゴル力士なしに相撲界が存続できないほどになっているのに、モンゴル本場所がないのが不思議に思えていた。興行収支が成り立つかどうかの話ではない。道義にもとる、感謝を忘れた傲り団体に相撲協会が陥っているのではないかという疑念があったからだ。<br />
　同時に、勝ちさえすれば親方といえど力士に文句を言わ（え）ない風潮が、相撲道という「道」を汚してきたのではないかとの疑念もあった。今回は、横綱日馬富士が貴ノ岩に暴力をふるったことに対し、貴乃花親方が警察に被害届を提出したことでさらに疑念を深めた。<br />
　事件の基点となったモンゴル力士会は20年ほど前設立された親睦会だが、当時の設立意義を越え、いまや「李下に冠を正さず」の疑いをかけられたら角界が揺らぐほど、番付上位力士にあふれる。自浄能力があった相撲協会なら、勝負世界の常識を超えた懇親会のありようを、事前に厳しく指導してきて当然だったのではないか。これまでも傷害致死で逮捕・追放された親方が出たり、泥酔暴行事件を起こし引退に追い込まれた横綱が出たりするたび、相撲協会の自浄能力が問われてきたが、協会の装丁をかえても金魚の糞並みの道義のままでは、利権の病巣もとれないだろう。<br />
　道義と利権。森友・加計問題に揺れる政界・官界は言うに及ばず、東芝、日産自動車、神戸製鋼所など大企業でも組織が巨大化し自浄能力が失われてしまう例は枚挙にいとまがない。洋の東西を問わず利権が絡むと組織は劣化しやすいものだ。日本社会がこうも劣化してしまうと、へそ曲がりの私には、どんな組織でも一石を投じる「貴乃花」が必要なのだと思えてしまう。<br />
　柔や剣、空手など武術の世界も語尾に道（みち）を付けたがるが、本来、道と組織とは相いれないもののように思える。仏教語の「三宝」にいう＜法＞を道に例えれば、道は師＜仏＞との出会いから始まる。師に道を習い、やがて師に並んで歩き、いつか師を越えて進んでいることもあるだろう。その過程で歩みに遅滞が生じるとき、折れそうになる心を力づけ、支えてくれる環境＜僧＞があることは大事だ。それは支えあう道友であったり、励ましてくれる家族であったり、目から鱗の先人の訓であったりする。結局「道」とは個の世界に始まり、個の世界に帰結するものであろう。 　組織の拡大は利権と結びつきやすいが、利権とはつまるところ、金であり地位であり名誉である。道の世界では「捨てよ」と教えるものだ。<br />
　貴乃花への批判が大きくなるほど、組織の中でたたかう、道を求める個としての貴乃花が思われてきてならない。事件の根がどこにあるのかは想像するしかないが、報道は組織批判から何やら個の批判に向けられて見える。だからなおさら、こういう親方を排除してはならないとへそ曲がりには思えてくるのである。]]>
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    <category>エッセイ</category>
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    <pubDate>Thu, 23 Nov 2017 00:54:23 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>想像力の欠如</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="font-size: 16px;">　2030年、北海道新幹線は札幌まで延伸される。早期開通をマスコミも多くの道民も願っているように見える。鉄道事業に対する想像力の欠如は、国政の劣化を招いている想像力の欠如と似ている。<br />
　昨年８月、JR北海道は留萌本線の留萌－増毛間の運行を廃止すると発表した。高波被害で運休が続く日高線では、関係自治体に対し「復旧工事で国に補助金を要請するならば日高線を持続させる仕組みをセットで構築することが不可欠」と釘を刺した。つまりJRだけに負担を求めるなら路線存続はできないということだろう。<br />
　2030年の北海道の人口推計値は468万人。2040年には419万人というから2050年には400万人の大台を切るだろう。<br />
　鉄道事業は毎年300億円の赤字を出している。３月開業予定の新青森―新函館北斗間の収支も毎年約50億円の赤字という。札幌延伸まで赤字が続くと累計700億円となる。開通から30年を経た青函トンネルは保守に毎年20億円を要している。延伸時の国の財政状況は現在以上に悲観的であり、今後JRへの支援が増えるとは思えない。JRの自助努力にも限界があり、今後、更なる地元負担を求めてくることは容易に想像される。釧網線、宗谷線、根室線などの廃止も議論されよう。<br />
　半世紀前、テレビに映る一般アメリカ人家庭の暮らしぶりを、日本人の多くが羨望の目で見ていた。アメリカに近づくことが明日のエネルギーでもあった高度成長期を経てバブルがはじけるまで20年、その羨望の多くは手に入れた。主婦は家事から解放され、主要道路の幹線網は形成され、不便な日常生活は大方解消された。人口減少、貧困層の増加などで需要が減少するのは当然だ。デフレ対策で市中に金をばらまいても、庶民の多くはつましい暮らしを選択する。<br />
　「バブル後」と言われてからもすでに20年が過ぎたが、20年前に少子高齢化で未来が危ないと、真剣に問題提起する政治家はどれほどいただろうか。当時はすでに、土木事業の景気刺激効果が疑問視され始めていたが、環境、クリーンエネルギー、ICTの公共政策を未来に向けて示した政治家はどれほどいただろうか。 <br />
　今、グローバル社会の深化、ICT化の進行で、行き場所（生き場所）のない労働者は劣悪なブラック企業に放置されたまま、格差社会が進行している。<br />
　貧困大衆の第一の関心は、明日の希望より今日食う飯にあるから、｢強い日本｣｢一億総活躍｣など聞こえのよいキャッチフレーズに惹かれ、一時しのぎの｢給付金｣に騙される。期待した政権交代への失望感は消えないまま、進むべき未来像が見えないから、公約反故の詐欺的解説に納得する。｢安倍首相は外交・内政とも一生懸命やっている。自信に満ちていて信じられそう｣という衆愚的幻想が政治を支配しているように見える。<br />
　広い大地、豊かな自然、冷涼な空間を持つ北海道のポテンシャルは高い。温暖化で作物適地が少しずつ北に移動し、北極海航路の中継基地としての役割も期待される。福島の原発事故以来、食料やクリーンエネルギーの供給基地として、北海道は未来の日本の保険としても重要な位置を占める。<br />
　保育、教育、介護、労働などの今日的課題は旧来政策の帰結である。聖書に言う。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ」と。新しい（需要環境）には新しい（供給システム）が必要だ。<br />
　1973年の新幹線整備計画時、40年後にはLCC（格安航空会社）が登場し新幹線と航空運賃が競合するとか、財政事情が悪化し続け、国の借金が１千兆円を超える事態になると誰が想像しただろうか。人口減少の推計には目をつぶり、バラ色の未来をちりばめて整備計画としたはずだ。<br />
　いま、新函館以北の新幹線を新たに計画しても現計画と同じになるのだろうか。そのような視点で、現計画決定の重要ファクターを洗い直し、今日的ファクターを加味して、その実効性を高めるのが「広域自治体」としての北海道の役割ではないか。<br />
　北海道にとって観光振興は大きな柱ではあるが、物流拠点としての新千歳空港については過去から議論があった。いまや空港の活性化は空港関係者のみで議論する時代ではない。新幹線の視点を札幌から新千歳空港に移し、鉄道と空港の一体的活用による経済効果から再考してはどうか。<br />
　人口減少による交通網の再編は時代の流れではあるが、拠点都市の繁栄なくして、町村を含む北海道の元気はあり得ない。道内空港も新千歳空港、北海道新幹線と有機的に結びつけた｢時のアセスメント｣として、賢人の英知を結集すべき時であろう。<br />
　知事はじめ基礎自治体の長が、「新幹線を札幌に延伸さえすれば北海道の未来が明るくなる」と単純に思っているなら、未来の人たちに無能なリーダーだったと言われるだろう。 10年後の沿線自治体がどうあるべきか、それに向かっていま踏み出さないならば、｢この10年あなたの自治体は何をしていたのですか｣と言われて、地方路線は消滅し、赤字沿線の自治体は消えていくことになるであろう。北海道新幹線への期待と現実は、国政の縮図であると思う。</span>]]>
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    <category>エッセイ</category>
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    <pubDate>Sat, 02 Jan 2016 05:31:19 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>戦後70年首相談話</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="text-decoration: line-through;"></span>
<p><span style="font-size: 16px;">　戦後70年の安倍首相談話を聞いて、ある事件を思い出した。平成13年４月三軒茶屋駅で銀行員が18歳の少年２人に殴られて死亡し、東京地裁で懲役３年以上５年以下の不定期刑の実刑判決が下った。反省の色が見られない２人に裁判長は、「さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか。この歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と語った。「償い」は実話を元にした歌である。加害者の誠意が被害者の妻に通じたときに加害者は救われ、同時に被害者の妻も加害者を通じて救われている、と感じたものだ。<br />
<br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　月末になると　ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに　必ず横町の角にある郵便局へ飛び込んでいくのだった。仲間はそんな彼をみて　みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと飲んだ勢いで嘲笑っても　ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり。僕だけが知っているのだ　彼はここへ来る前に一度だけたった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　配達帰りの雨の夜　横断歩道の人影にブレーキが間に合わなかった　彼はその日とても疲れてた。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　「人殺し　あんたを許さない」と彼をののしった被害者の奥さんの涙の足元で　彼はひたすら大声で泣き乍らただ頭を床にこすりつけるだけだった。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　それから彼は変わった　何もかも忘れて働いて働いて　償いきれるはずもないがせめてもと毎月あの人に仕送りをしている。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んできた　しゃくりあげ乍ら彼は一通の手紙を抱きしめていた。それは事件から数えてようやく七年目に　初めてあの奥さんから　初めて彼宛に届いた便り。　</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　「ありがとう　あなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました　だからどうぞ送金はやめてください　あなたの文字を見る度に主人を思い出して辛いのです　あなたの気持ちはわかるけど　それよりどうかあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　手紙の中身はどうでもよかった　それよりも償いきれるはずのないあの人から返事が来たのがありがたくてありがたくてありがたくて　ありがたくて　ありがたくて。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　神様って思わず僕は叫んでいた　彼は許されたと思っていいのですか　来月も郵便局へ通うはずの優しい人を許してくれてありがとう。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　人間って哀しいね　だってみんなやさしい　それが傷つけあって　かばいあって。</span></strong><br />
<strong><span style="font-size: 16px;">　なんだかもらい泣きの涙がとまらなくて　とまらなくて　とまらなくて。</span></strong><br />
<br />
　</span><span style="font-size: 16px;">歌を思い出したのは、談話の中で「・・あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません・・」というフレーズが耳に付いたからだ。<br />
　安倍政権の支持率を少し上げ戻したという、何かしら心地よく耳に響くフレーズではある。しかし、十分謝ったかどうかは加害者が決めることではない。被害者が、「もう謝罪は十分です」と言わない以上、謝罪は続けるべきではないのか。そもそも被害者が何度も謝罪を求めるのはなぜであるのか。<br />
　いじめでも、被害者の心の傷はおしなべて深いが、加害者の反省の意識には、様々な段階があり、両者には大きな乖離がある。鳩山元首相が韓国の慰霊碑に額ずいたからといって、侵略した国家が心からの謝罪をしたということにはもちろんならない。まして侵略戦争なら＜子や孫、その先の世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない＞からこそ、戦時・戦後の記憶の濃い今の世代が、機会ある毎に謝罪を行い、できうる償いを重ねることに何をはばかることがあるのだろうか。<br />
　国と個人では謝罪の意味・重みが違う、同列の議論にはなり得ないという考えもあろう。しかし国家に擬制した侵略決定のプロセスについて、戦後どれほどの議論、反省があったのだろう。その議論、反省への不審こそが謝罪を何度も求められる根源になっているのではないか。<br />
　侵略した「国家」とは何か。国家そのものに実体はない。侵略を決定するのは＜国家＞の言葉に隠れた＜人＞である。戦後70年も経つのにその議論、ツマリ隠れた人、その人が育つ組織、その組織が力を持つに至った背景を明らかにする議論が少なすぎる気がしてならない。だから政治が劣化し、武藤貴也議員のような発言<b>［l</b></span><span style="font-size: 16px;"><b>SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ</b></span><span style="font-size: 16px;"><b>］</b>が出てくるのではないのか。<br />
　オリンピック施設関連整備費の、見積もりとの甚だしい乖離も、原発事故の検証や再稼働許可のありようも、その背景に、責任の所在が不明確なまま堀が埋まっていく決定プロセスが、今に生きている気がする。</span></p>
<p><span style="font-size: 16px;">　世界は全く新しい時代に入っている。新興国の台頭、民族紛争の頻発、地球規模の環境破壊、インターネット網の拡大・・・。<br />
　グローバル世界の中で、いまや国内景気が回復すれば税収が上がり借金が返せる、などという言葉を真に受ける単純な市民はいまい。経済成長は期待できず、財政悪化、格差の是正などに、応分の責任と負担を覚悟をしなければならない時代に入っていることも知っている。経験したことのない成熟社会、人口減少下の今だからこそ、＜発展＞という言葉にも新しい「価値観」と「尺度」が必要であろう。<br />
　その今を、民主主義を口にしながら、真逆の方法で、多くの国民が望まない重大施策を堂々と進めようとしている。周辺国には「70年前と何ら変わらない日本」と映っても不思議はない。<br />
　万が一に備えるという政策は正しい。しかし、万が一殴られたら直ちに殴り返すという万が一であってはならない。どうして殴ったのか、否、どうして殴ろうとするのかを聞ける態勢にあること、そのシステムを組み込んで初めて「万が一に備える」という政策に国民理解が得られよう。<br />
　私には、子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、あの世からも謝罪をしかねない、愚かな選択をしつつある政権が、「歴代政府の歴史観を継承している」とはとても思えないのだ。＜コピペ＞の反省フレーズで覆っただけの、言葉遊びのような、戦後70年首相談話にしか聞こえなかった。</span></p>]]>
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    <category>エッセイ</category>
    <link>http://hekitoukai.blog.shinobi.jp/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/%E6%88%A6%E5%BE%8C70%E5%B9%B4%E9%A6%96%E7%9B%B8%E8%AB%87%E8%A9%B1</link>
    <pubDate>Wed, 19 Aug 2015 04:23:55 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>空手のオリンピック競技化について</title>
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    <![CDATA[<span style="font-size: 16px;">　6月17日の新聞に、空手のオリンピック競技化に反対する作家、今野敏氏の標題記事があった。空手愛好家の一人として、私も以下の理由から反対である。<br />
<br />
　<span style="font-size: 16px;">世界的に空手愛好者が増える中、国内的には少子化とスポーツの多様化で、武道に打ち込む若者の数は低迷している。空手関係団体などに危機感があるのは当然と思える。<br />
　もともと武道はスポーツとは別の世界だ。武道では作為を嫌う。競うことに心縛られることも嫌う。<br />
　例えば、日本弓道。矢を放つには指を放さないと飛んでいかないが、弓聖といわれた阿波研造は「放してはいけない」と言った。<br />
　「放すということは、この指を使うとか、上手く放して的に当てようとかの欲望、作為が出る。作為があると、作為の微妙な心の気持ちが反映して放れは乱れてくる。そういう作為と闘ってそれを消そうと努める。同時に体の力も呼吸で抜けて来ると、心と身体との闘いの極致で、自ずから弦の手は放れて矢は飛んでいく」<br />
　弓道では＜放して当たった＞射よりも、当たらなくとも＜自ずと放れた＞射の方を上と見る。それを見抜く熟達者の世界がある。<br />
　オリンピックの採点では素人目にも分かる公平・公正な点数化が必要だから、「オリンピックキュウドウ」をもし考えるとすれば、①的中矢数を競い、②射法八節に表現細則を定め、演技の誤差を数値化して優劣を判断するような審査基準をつくらなければならないだろう。①だけならアーチェリーと同じである。見える指標①、②で優劣を決する「キュウドウ」は、見かけは同じでも、「弓道」とは全く別のものである。<br />
　空手でも同様のことが言える。上級者の「組手」は「自由一本組手」で足りる。熟達者もそこに心の乱れや作為を見抜く。勝った方にそれを見、負けた方を上とすることも武道としてはあり得る。しかし競技スポーツとなれば「クミテ」として手数の多さで優劣を競う①のようなかたちにならざるを得ない。<br />
　一人で演武する「形（かた）」も、身体能力の優劣や表現力を競う世界とは別次元のもので、熟達者にしか見えない要素を多分に含む。見えないものも見て「形」の良し悪しを判断する。しかし、オリンピック競技とするには、「カタ」として身体の柔軟性や筋肉の質で限定される②のような審査基準をつくらざるを得ない。「クミテ」も「カタ」もスポーツとは言えても、武道空手に言う「組手」でも「形」でもない。<br />
　剣道界や弓道界が一枚岩でいられるのは、若者を引きつける競技のスポーツ的側面のほかに、競技性を超えた八段審査などがあるからだろう。競技の優秀者だから審査に合格するわけではない。競技性とは別の価値観に根ざした「武道世界」を目指し、剣士、弓士の高段者達は終生努力する。<br />
　残念ながら、今の空手界はスポーツと武道が大同団結したような組織になってはいない。関係者はさらなる広がりをオリンピック化で期待しているのかも知れないが、かなりのカラテ指導者が武道を偏向認識している現状を考えると、「カラテ」を「空手」として国際化される方を恐れる。「柔道」が「ジュウドウ」となって、スポーツ的側面が強調され、武道的精神が失われていった組織の二の舞を演じることを恐れる。オリンピック競技化に反対する理由である。</span></span>]]>
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    <category>エッセイ</category>
    <link>http://hekitoukai.blog.shinobi.jp/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/20150627</link>
    <pubDate>Sat, 27 Jun 2015 00:44:34 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>同調率</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="font-size: 16px;">　新春早々のトーク番組の中で紹介された「アッシュの同調実験」に興味を引かれた。大阪大学大学院・釘原教授が行った実験は、一本の直線Ａが引かれている紙を学生被験者に見せ、その後、明らかに違う長さの２本の直線Ｂ、Ｃを加えたもう一枚の紙を見せて、初めの紙に引かれた線と同じ長さのものはどれかを答えさせるというもの。実は最後に答える学生被験者以外は皆サクラで、サクラ全員がＣと答えると、被験者はＡと思いながらも、口ごもりつつＣと答えてしまうのだ。<br />
　教授は、この「同調率」が過去より高くなっていることが予想外だったと言うが、私はこの実験結果に納得してしまった。たしかに、我が国の若者に優秀な人材が減っているわけでもなく、自由奔放な活動も見られるし、スポーツでも世界に活躍する選手が多くいて、個性が輝いている。一見、人の意見に左右される層が増えている状況にはないようだが．．。<br />
　数年前、妻が息子の友人に「ご飯のおかわりは？」と聞いたとき「だいじょうぶです」と答えたのに違和感を覚えたことがあった。お腹が一杯なのか、まだ食べられるけど遠慮するのか、どっちなんだと。その後、食事以外のいろいろな場面でこの種の「だいじょうぶです」が巷に溢れていることに気付いた。<br />
　先日、この話を仲間内の勉強会でしたら、「授業中の学生の私語が止まず、『教室から出ていけ』と叱責したら、『だいじょうぶです』と答えられて面食らった」という先生がいた。「だいじょうぶです」の使い方もここまでくると別次元の話になるのかもしれないが「答えていない答え方」が多くなってはいないだろうか。<br />
　息子と友人との会話には、「何時『くらい』に、あそこ『あたり』で会おう」などのあいまいな表現が多く、家庭内の会話でも、時折語尾が消え入りそうに聞こえることがある。就職活動の不調が続くうちにこうなってしまったのかと多少の同情もあって、２回に１回は敢えて注意をせずにいるが、「傷つきたくない」、「傷つけたくない」という気持ちがこういうあいまい言葉に現れているなら、その背後にある社会環境の変化は見過ごせない気がする。<br />
　注文の復唱確認に店員が「これでよろしかったですか」と過去形で聞くのにも、何となく違和感をおぼえていたが、これも同調率が高いということと無関係ではない気がする。過去形で聞く方が、店員の方が聞き違えたと、客の心情を傷つけずに済む配慮が微妙に感じられなくもないからだ。<br />
　最近のヘイトスピーチに代表される差別や偏見を増長させるような言葉を吐く人が集団化してくると、大衆層の若者は、ますます狭い殻に閉じこもるか、迎合してより弱い者に矛先を向け出すのではないか、と思える。ネットの匿名性を隠れ蓑にした偏見集団が形づくられることもあろう。ここに言う大衆層は、現今の政治経済利権社会の上部の２％（1%？）を除く人たちという程度の意味であり、個別の人間能力を差別して言っているのではない。<br />
　私たち世代の多くは、その大衆層の中で議論し、多少の激しい言葉のぶつかり合いも経験として生きて老いてきたが、その経験は自分の確固とした思想、論理を持つためというより、生き抜く人間力というか、生きるに必要な「直感力」を育むことに貢献したように思える。だから、ふてくされてもたくましく生き抜いているうちに、実際の現象が少数派や負け組に逆転する場面に出くわすこともできた。<br />
　今の時代は、大衆層の中での若者の議論や経験が不足している気がしてならない。少数派の声が聞こえにくく、議論や経験ができない雰囲気が増しているのかもしれない。結果、直感力が弱くなる。<br />
　同調率が高い社会は危険である。<br />
　専門家においてさえ賛成派、反対派が飛び交う、複雑化、多様化した社会の判断は、大衆にとっては人間力に裏打ちされた直感力で判断するしかない。例えば原発問題や防衛問題。その集約結果が選挙だろう。選挙を通じて大衆は上の２%層とようやく渡り合えるが若者の選挙離れが進んでいる。同調率が高まると更に選挙離れが進むのではないか。それでは２％層に都合のいい社会になるばかりだ。<br />
　直感力を磨くには、経験しかない。埋没している若者が、人間らしく生き残れるために必要な直感力を育む場をつくっていく必要がある。政府の地方創生には大した期待はしていないが、自治体政策にはこのような視点も忘れてほしくないと思っている。</span>]]>
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    <category>エッセイ</category>
    <link>http://hekitoukai.blog.shinobi.jp/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/%E5%90%8C%E8%AA%BF%E7%8E%87</link>
    <pubDate>Sat, 10 Jan 2015 05:10:47 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>選挙</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="font-size: 16px;">　アベノミクス解散だと言うが、経済専門家でも議論が二分している施策を一般国民がどう判断せよというのか。急ぐ理由のない解散に意味を付けるなら、本当の争点はそれではないところにあると思える。<br />
　イラク戦争に際し、我が国は人道復興支援活動として６年間で延べ１万人の自衛隊員を送り、比較的治安が安定しているとされたサマーワを中心に安全確保支援活動を行った。サマワ宿営地は13回、22発のロケット攻撃を受けたが、死者は出なかった。記念式典（隊旗返還式）では、活動を終えた隊員に、当時の小泉首相が「全員が無事帰国できた・・・」と述べた。しかし、帰国後、隊員の自殺者が28人も出ていたことが、今年４月のNHK「クローズアップ現代」で放映されていた。<br />
　国家とは領土、国民、統治権から構成される概念だ。「国を守る」と言うと聞こえはよいが、問題は統治権行使の主体である。統治権は選挙によって為政者に託されているが、福島原発事故後の国の対応を見れば、為政者の影に連なる利権集団の＜自衛権の行使＞により、統治権は多数の国民の願いとは違う方向に使われているようだ。<br />
　閣議決定で憲法解釈を変えるというのも、民主主義から遠いところにある。集団的自衛権の発動となった場合、「特定秘密保護法」を根拠に、発動決定に至る具体的背景などは国民から更に遠い情報となるであろう。<br />
　若者の多くが自衛隊を「就職先」として考えているなら、生死に直面するリスクの高い「職場」への志願者も減るだろう。少子化がさらに進めば徴兵制につながる道を開くことが懸念され、「憲法を変えなければ集団的自衛権が行使できない」とさえ言われかねない。様々な疑念に対し、防衛がどうあるべきかの議論は尽くされてはいない。秘密保護法も同様である。「企みを挫く」という首相の言葉はどの国を念頭にしているのか、中韓朝への国民不安を煽るだけで、憲法解釈の変更がなされたように感じた人は多いはずだ。<br />
<br />
　アベノミクスの結果はいずれはっきりするが、へそ曲がり的に見ると、余裕ある世代、階層であっても政府が望むようには金を使わないと思える。非正規労働者の比率は40％近く、2千万人近い。非正規労働に甘んじる子を持つ親は、子どもの未来への不安から貯蓄に走るだろう。いくらかの余裕を株式等に注いでいる親にしても、その運用益は再投資され購買力の底上げは限られよう。<br />
　正規労働者も増えるとは思えない。産業構造の転換に伴って、必要な正規雇用そのものが少なくなっている。情報技術の発達により、かつての庶務や管理などの業務は大幅に機械化され、人員の整理が進んだ。さらにグローバル経済の発達により、企業は、リスク分散のための海外進出や非正規労働者の調整で景気の世界的変動に対応しようとする。国内事情や政治要請だけで動けないほど、多くの企業が変質し国際競争にさらされている。埋もれた労働力、貧困にあえぐ労働力の行き場をつくらねばならない。<br />
<br />
　地方の時代が言われだしてから40年以上が経つが、各地で一村一品運動などに取り組み出した当時は、成熟社会の未来像をまだ思い描けてはいなかった。政党も欧米に追いついた後の日本の進むべき未来を示せなかった。しかし今、想像力を働かせれば、未来はかなり見えてきたように思える。<br />
　それは新たな労働集約型の産業を地方で興し、正規雇用を増やすことだ。少々経済的に苦しくても、安全・安心の中で充実した日々を選択したいという国民が確実に増えている。弱者に優しいまちづくり、マイクログリッド、スマートグリッドによる省電力化社会の推進、六次産業による地域循環型社会の形成など、点りだした新産業の芽を育み、組み合わせ、統合発展した「地方の時代」、それが未来に向けた国づくりの柱の一つとなろう。そこに経済再生施策の重点を置くべきだと思う。<br />
　そうは言っても、＜無駄＞という悪魔はどんな時でもスッと忍びこんでくるものだ。疲弊した自治体においてさえ例外ではない。数年前、再生途上の夕張市で、市営住宅の建て替えが議論された時、計画図面を前に、風呂はいらないと発言したケアマネージャーがいた。夕張は共同浴場でコミュニティが守られてきたし、住む人は風呂掃除も難しく、風呂栓もうまく抜けない高齢者が多いから、風呂より住宅そのものの充実を、と言うのだ。まちづくりの視点は常に現場とともにあるべきなのだ。＜利権＞という悪魔に対しても、「企みを挫く」同様の視点が必要であることはいうまでもない。<br />
<br />
　無駄な箱物行政の愚を見抜き、生活弱者に寄り添い、住民の日常に目を配ることを生業としている人たちの意見を広く酌み取る政治家に一票を投じたいのだが、その人が見つからないで困っている。</span>]]>
    </description>
    <category>エッセイ</category>
    <link>http://hekitoukai.blog.shinobi.jp/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/%E9%81%B8%E6%8C%99</link>
    <pubDate>Sat, 06 Dec 2014 02:43:46 GMT</pubDate>
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