忍者ブログ

碧濤のひとりごと

Home > ブログ > エッセイ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

地方創生

 未来の日本への不安は、25年前に想像したより深刻化している。
 25年前の竹下内閣下では「自ら考え自ら行う地域づくり事業」、通称「ふるさと創生事業」というのがあった。全国の自治体に1億円ずつ、総額3千数百億円が投じられたが、どのような経済効果が生まれ、地域づくりが進んだのか、地方交付税交付金の使い道は国の関知するところではないとして、検証調査はないという。
 当時は「一村一品運動」が言われ、成熟社会の未来不安から、あちこちの若者が「ミニ独立国」と称して、まちづくりへのエネルギーを、目に見える地域づくりにつなげようとした時代でもあった。しかし、「地方の時代」と言い、言われながら、いざ一億円を渡されると、どう使っていいか分からない<痴呆>自治体も多かった。宝くじを買ったり、金塊を展示したり、利子を期待して貯金した自治体もあるなど、「これがふるさと創生なの」と思いながらニュースを見ていた。
 アベノミクスでは「地方創生」を言うが、「ふるさと創生」と同じ趣旨なら、この25年で、「地方創生力」はどれほど増しているのだろうか。
 住民アイデアの中には、前例のないものや、時代を先取りしたものもあったろう。私が住んでいたR町では「ふるさと創生基金」として、まちづくりに役立つアイデアを募集した。仲間と相談し、消えかけていた地元民話を創作民話集として住戸配布しようと応募した。助成が決定するまでは「教育委員会がするべき仕事」とされて前例至上主義の波を受けた。今、地元の子どもには昔からある民話として、読み聞かせ会の台本として使われたり学芸会などで上演されていると聞き、ふるさとづくりに協力できたと喜んでいる。
 アベノミクスは第1の矢の金融緩和で、株主や一部大企業を潤わせたが、その企業の末端ラインに働く「派遣労働者」には、利益に見合うペイバックはどれだけあるのか。この10年、公園管理や住民センター運営など多くの公共施設が「指定管理者制度」に移行したが、雇用者には生活保護世帯並みの暮らしでいる人も多いと聞いた。結婚はおろか、生活の行く末に夢さえを持てない現実がそこにある。「非正規労働者」の割合も90年代の2倍、雇用者の40%近くに高まり、消費低迷の一因になっている。もちろん彼らのほとんどは株式投資とは無縁にいる。消費が低迷している中、高級ブランド品の販売は好調だというデパート関係者の証言は、富が偏在している証左でもあろう。
 第2の矢でいう財政支出の効果も疑わしい。公共投資は、インフラが整備された現代は波及効果は昔ほどない。投下資金の用地補償費に回る割合が高まり、肝心の生産誘発効果は減っている。公共事業が減って業界整理も進んできたところに、東北大震災が重なり、その復興中に財政支出が増えては資材高騰、専門職不足で、事業もはかどらない。無理に事業を進めれば手抜きや不良成果物が多く出て、後世の危険リスクや、製品寿命の低下につながり無駄な出費が多くなる。
 第3の矢の、目玉と言われる「地方創生に係る交付金事業」は5年間で1兆円規模とのことだが、事業採択の可否を作文だけで判断する旧来の手法にも変わりはない。「審査で地方の本気度を見る」などともっともらしいことは言わず、いっそ、25年前のように無条件配布して、結果の成長事業に継続傾注投資する方が気が利いていると思える。机上の正否空論で失敗事業に終わるよりは、「予想外の成長につながった」という結果を継続助成に生かした方が、未来の地域づくりに役立つと思えるからだ。
 この25年間、国債や借入金など国民借金は3倍以上に増え、今や1千兆円を超えるというが、その借金は何に姿を変えたのだろうか。「地方創生事業」が頼みの綱というなら、地方創生力、ふるさと創生力の成長を邪魔してきた正体は何だったのか。その検証なくして、地方創生事業も成功するとは思えないのだ。

拍手[3回]

PR

地方再生の視点

  オーディオの老舗パイオニアが音響部門を手放し、カーナビ部門へと転換するという。ソニーの凋落も激しい。書籍や新聞は電子配信され、食料品や衣類もネットで購入する時代となり、これまで日本経済を牽引してきた産業は大きな転換点に立っている。
 日本の大企業が時代の変化に乗り遅れ、バタバタと落ち込んでいく現状を、20年前に予想した人はどれほどいたのだろうか。加速する情報社会、拡大経済はグローバル化の側面だろうが、大企業の凋落は、これまでの日本企業の意志決定が、時代変化のスピードについて行けない証左でもあろう。
 成長(拡大)には資源の枯渇や、環境汚染などのマイナス面がある。かつては、完全雇用という目標を達成する手段として成長が必要だと考えられたが、現在では成長が目的化され、生産拠点や雇用の場が海外に移転し国内の失業が増えても仕方がないことと考えられている。経済はどこまで<成長>し続けねばならないものなのだろうか?世の中がここまでおかしくなってくると、巨大企業や利権集団に都合の良い<成長>という名に隠れた<欲望>に、地球が牙をむき始めているような気さえしてくる。 
 すでに地球の保持能力の1.5倍と言われる人間活動である。資源消費と環境汚染の排出レベルを地球自体の許容範囲、復元能力の中に抑えながら、「豊かな暮らし」をどう実現していくのか。多分に精神的な側面は含むが、「地方再生」もそういう視点から注視していかねばならない時代と思える。
 「役員報酬を下げたとしても電気料金を下げられる程にはならない」と、再値上げを平然として言った北海道電力社長。値上げの認可権限を握る国でさえ呆れる発言だった。コミュニティの崩壊で声なき底辺層が増える中、私と同世代の、痛みの分からない人が社会の上部に目立つのは残念だが、これも成長至上主義の側面なのかもしれない。
 思い出すのはM市にある、私が生まれるずっと前からある天ぷら店だ。昭和天皇もその天ぷらを口にしたくらいだから、味は一流だが別に気取った店構えではない。M市も人口が激減し、今はさすがにその場面に出合わないが、昔は昼を少し過ぎたころに閉店ということがよくあった。一日の売上量が決まっていたからだ。昔ながらの味と感じるのは、郷愁からばかりではなく、味付けを時代の変化に合わせて工夫してきたからではないのか、とも思う。奉公人にのれん分けはしても、自ら支店を出したり店を大きくしようとはしない、客を第一とする、その店の頑固さが、今も客が切れない長寿の一因だろう。
 日本には長寿企業が多い。世界にある創業200年を超える企業の半分以上3146社が日本に集中しているという。創業千年を超える企業が7社もあり、500年以上も32社あるそうで、日本はまさに「長寿企業大国」と言えよう。共通するのはその90%は従業員数300人未満の中小企業であり、韓国銀行の分析では、「本業重視、信頼経営、透徹した職人精神、血縁を越えた後継者選び」などを長寿要因に挙げている。従業員数300人程度の企業ならば経営陣も末端まで目も届こうし、今はうまくいっているかに見える先行き不安部門から、期待部門へと先行投資の決断も素早くできる。
 明治以前は日本も藩ごとに独立した統治機構があった。単純化して考えれば、封建時代の主従の関係が、今では横の関係になっている(はずの)国と自治体の関係だろう。手厚く保護されたわけではない幕藩体制下での方が、今の自治体より自律と自立の精神に富んでいたのではなかろうか。貧しい時代ゆえ尚更、生きるために必要だった工夫や助け合いの精神も、今より濃密だったような気がする。
 封建時代が良いというのではもちろんないが、消滅を懸念される自治体の首長や議会議員は、安易なカジノ誘致や、これまで通りのバラマキ行政への期待を言うのではなく、長寿企業の生き残る工夫や、藩政逼迫時の自律と自立に向けた改革の歴史を振り返って、次世代に対し果たすべき職責を考えてみる必要があるように思う。

拍手[4回]

集団的自衛権をどう考えればよいのか

 閣議決定の効力について、民主党の武正公一議員の質問に対する政府回答がある。
「閣議決定の効力は、原則としてその後の内閣にも及ぶというのが従来からの取扱いとなっているが、憲法及び法律の範囲内において、新たな閣議決定により前の閣議決定に必要な変更等を行うことは可能である。」

 個別自衛権についての限界、集団的自衛権行使の課題をあらゆる面から議論する必要があるのに、国会議論の前に外遊先で「集団的自衛権の行使容認」を積極発言し、外堀を埋めて見える安倍首相。その海外発言報道が多いほど、閣議決定で、未来が決まってしまったかのような錯覚を起こさせる。

 小選挙区制の弊害、派閥解消の反動で、自民党内の反対論も封殺される。35%の国民支持しか比例区で得ていない自民党に憲法の実質改定を迫られる。地方議会1800の内160ほどの議会が反対表明をしているのは不幸中の救いではあるが、首相発言の論理矛盾を報道する番組も皆無といっていいほどだ。「何か変だ」と思っているうち、検証されないまま次々と事態が進行し、のっぴきならないところに国民は導かれる。まるで誘導販売でとんでもないものを買わされる消費者のようだ。

 戦後70年になろうとしている今、集団的自衛権行使容認の議論をしているのは、戦争体験のない政治家たちだ。テレビ朝日が行った緊急アンケートでは、NGO24団体中18団体が、自衛隊による『人道支援の民間人』を支援することに<反対>と回答した、という。
 アフガニスタンで活動するペシャワール会の医師、中村哲氏は言う。「安倍首相は記者会見で、『海外で活動するボランティアが襲われても、自衛隊は彼らを救うことはできない』と言ったそうですが、全く逆です。命を守るどころか、かえって危険です。私は逃げます。」「九条は数百万人の日本人が血を流し、犠牲になって得た大いなる日本の遺産です。九条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられたのです。」
 戦争の悲惨を実体験した人や、戦争状態の現場にいる人の言葉は重い。戦後の平和憲法を作った先人の多くはすでにこの世にいないが、もし今、彼らに70年後の今の日本の状況を示して、集団的自衛権行使の可否を聞いたら何と言うのだろうか、そういう視点で、憲法の重みを考えなければならない。

 集団的自衛権の行使を許せば、自衛隊への志願者は減り、徴兵制度の検討が絵空事ではなくなろう。相対的に過激な性向の隊員が増え、あおったり、あおられたりしながら不測の事態は勃発するとさえ思える。
 福島第一原発所長の吉田所長と東京電力本社の事故当時のやりとりのように、現場を知らない者があれこれ言っても、戦場では想定を超えた事態が次々と起こるに違いない。集団的自衛権の行使に歯止めをかけると言っても、戦争現場で歯止めのふるいが機能するとは思えない。

 アメリカから強い要請があったわけでもなければ、国際緊張が別次元に高まり、集団的自衛権行使を今すぐ決めなければならない事態になっているとも思わない。逆に集団的自衛権行使を容認すれば、不測の事態を引き起こすリスクの方が格段に増すだろう。想像させる歴史事実がある。
 1964年ベトナム戦争の契機となったトンキン湾事件が起きた。北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したというものだった。7年後ニューヨーク・タイムズの記者がペンタゴンの機密文書を入手して米国が仕組んだ事件だったと暴露した。当時の国防長官ロバート・マクナマラも1995年には「北ベトナム軍による攻撃はなかった」と告白している。
 2001年9・11同時多発テロ事件が起きた。テロ再来を恐れるあまり、米国は大量破壊兵器があるとして2003年イラクに侵攻した。アナン国連事務総長は国際法上根拠を持たない「違法な行為」と批判した。ドイツやフランスはイラク侵攻に強硬に反対した。アメリカと行動をともにしたイギリスでは、反対する閣僚の辞任が相次ぎ、ブレア元首相への責任追求の国民の声は今も絶えない。
 当時の小泉首相が大量破壊兵器について「アメリカがあると言うからあるんでしょう」と発言していた記憶が鮮明に残る。国際協力を巡る湾岸戦争以降の日本の対応が正しかったのか、そんなことを検証する番組はどれだけあるのだろうか。民主主義成立の欧州との背景の違いを考えれば、この種の大事に日本人は疎い民族なのかも知れない。だからこそ議論は尽くしに尽くさねばならない。

 新自由主義の行きついた所は、極端に言えば、1%の富裕層が99%の人の暮らしや生命を左右する格差社会だった。戦後のアメリカとの共同歩調が今の形のままずっと続くのがいいのか。
 環境保全、公害防止、高齢者医療介護、六次産業化による地域自立、そして原発廃炉技術など、今後アジア新興国でも起きてくる課題を先行経験し、解決していく日本の姿の中にこそ、国際貢献、アジア平和のためになすべきことが凝縮されているように思える。急激な経済成長に民主主義が追いつかない中国に、逆に体制強化に資することになるような口実を与えるべきではない。

 今年1月のダボス会議直後、豪日刊紙オーストラリアンに載ったという記事を、千葉大学教授の酒井啓子氏が日経紙に紹介している。「もし今年、第三次世界大戦が起きるならこんな感じだろう。中国の漁船が東シナ海の係争中の島に接近し、日本の海上保安庁がこれを襲い漁民は逮捕され発砲がなされる。北京は最後通告を出し、東京は日米安保条約を発動する」 

 5月15日の記者会見で安倍首相は言った「・・・巻き込まれるという受け身の発想ではなくて、国民の命を守るために、何をなすべきかという能動的な発想を持つ責任があると、私は思います。・・・」http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html
 憲法九条の精神を護る立場の人ならどう言うだろうか。
「・・・(戦争に)巻き込まれないように、憲法九条の平和主義を国際社会に訴え、戦争で荒廃した国の民生安定に積極的に貢献していくという、能動的な発想を持ち続ける責任があると、それが日本国民の命を守ることになると、私は思います。・・・」
 国民は今、未来社会の選択を迫られている。

拍手[7回]

人間性と知性

 西村凛太郎君(俳号:小林凜)は2001年5月、未熟児で生まれた。未熟児特有の障害を標的に同級生からいじめられ、教師の心ない対応もあって、小学校を途中から自主休学した。彼は、生きる希望を俳句に見つけた。以下は、句集「ランドセル俳人の五・七・五」(ブックマン社)の中の10才、11才当時の句である。
 いじめられ行きたし行けぬ春の雨
 亡き祖父の箸並べけり釣忍
 生まれしを幸かと聞かれ春の宵
 ゴーヤ熟れ風に新聞読まれけり
 携帯の音かき消して蟬しぐれ

 彼の句に触れながら、救いの網に外れているだろう多くの子ども達の現状を思った。ギスギスした現代の、いじめに苦しむ生活環境は、私の想像及ばぬ地獄であろうが、彼の句は、経験や知識を超えたところにある、人としての存在意義、根源価値とは何かを考えさせた。我々はいつの間にか、心も身体のように「成長」すると考えて子供に接しているが、そもそも、心が成長するとはどういうことか。
 ふと11才当時の自分が思い出された。義理の祖父母宅の二階に一家が間借りしていた冬の朝、階下の祖父母が使う茶の間のストーブにゴミをこっそり捨てたことがあった。屋外まで捨てに行く、割り当てられた仕事の手間を省いたのだが、祖母の収まらない怒りに、だんだん知らんぷりを決め込めなくなり、父に打ち明けた。鉄拳を覚悟しての震えるような涙の告白に、予想外の父の笑顔があった。謝罪しても和まぬ義理の祖母の表情には、他人であることの意味を知った気がする。あの時の自分の心の動きは鮮明で、50年以上を経ても色あせることはない。
 この句集の存在を知ったころ、手話を教えられたゴリラを紹介するテレビ番組があった。人間と手話会話ができるというだけでも驚くのだが、ゴリラの「死生観」は更に<人間性>とは何かを考えさせる。2千語を手話で使いこなすというメスゴリラのココと、ムーリン研究員の会話である。(参考URL http://www.qetic.jp/blog/pbr/archives/4279 )
 ムーリン研究員: このゴリラ(人形)は生きているの、死んでいるの?
  ココ: 死んでいる さようなら。
 ムー: ゴリラは死ぬとき、どう感じる?幸せ、悲しい、それとも怖い?
  ココ: 眠る。
 ムー: ゴリラは死ぬと、どこにいくの?

  ココ: 苦労のない 穴に さようなら。(Comfortable hole bye.)
 ムー: いつ、ゴリラは死ぬの?
  ココ: 年とり 病気で。
 感じたり、思ったりするのはゴリラも人と変わりはない。しかし、人は感じたり思ったりするだけでは済まず、概念化し意味づける。ただある「半分の酒」を「半分しかない」とか、「半分もある」と「分別」する。人は、この「分別」という<知性>の「業(ごう)」の中にいて一生苦しむ生物である。そして業の束縛からの解放を求めて止まない生き物でもある。
 経済優先社会も突き詰めれば「知性」にもとずく。その極ともいえる原発大震災という人災があっても、社会のシステムは、まるで天の啓示さえ無視するかのように動こうとする。
 本来、いろいろの種があるだけの生き物を、知性が人間に近ければ上等、遠ければ下等と分別する。<人間性>とは何か。凜太郎君の俳句もゴリラのココの手話も、それを問うている気がする。「我々の無知が彼らの力だ」というバークレー市民の人権標語が思い出される。
 どうにも抗えないような負の力が、人間という種そのものを破滅しかねないほど巨大になっている現代、<知性>が<人間性>を無視して一人歩きすることは許されない。<人間性>とは何かを、個々人、地域、社会全体が問い直さねばならない時のように思える。

拍手[9回]

落選記

 10月末にU町の知人から呼び出され、紆余曲折があって、町長選挙に出ることになった。人生で最も長く感じた一ヶ月だった。
 ポスター用の写真は「もっと笑え」とばかりに、頬が引きつるほどに何枚も撮られた。<お茶懇>と称する座談会では、いつも持ち歩いているリュックを「みっともないからカバンにした方がよい」と言われ、街頭演説では、「現町長がジャンパーを脱いでいるのだから、あなたも」と言われた。高めの血圧と頭髪がない分、それは拷問に近かった。
 「手を振る人を見たら駆け寄って、両手で握手すること」は、嫌な客にも酌をする芸者のようだ、と思えた。「スタッフは当選を目指して言ってくれるのだ」と我に言い聞かせた。支持者かと思い、駆け寄ったら「うるさいから文句を言いに出てきただけだ」と追い返されたこともあった。「あいさつに来ないから投票しないつもりだった」と言う人もいた。
 「時代が変わればやり方も変わる」という政策上の主張は受け入れてくれるが、「名前の連呼は止めてほしい」との願いは、なかなかスタッフに届かなかった。<新しい発想が必要と言いながら、その発想が出ない>のと同じく、地方選挙の態様は何ら変わっていないようだ。
 しかし、誰もいない指定場所で演説していると、遠くに何人かの人が出てきたり、加工場の窓ガラスの向こうで演説の最後に手を振る人たちや、塀越しに作業をしながら聞き入る漁師もいて大いに力づけられた。
 私のようなへそ曲がりが、自分とは別世界のことと思っていた選挙戦に耐えることができたのは、<まちづくり>に対する私の主張を認めてくれる人たちがいたからだ。
 現職町長には公開討論会の申し入れは拒否され、「避難道路建設を中断した時の所長」とねじ曲げた中傷も受けた。現町政下で移住促進を言いながら、「我が町で<ヨソ者>が首長になったことは一度もない」と喧伝された。現職がそうまでするのは、政策に対する自信のなさや、支持者が離れるかも知れない不安・恐れの現れだろうと思った。
 町長になること自体が目的化され、政策が二の次に置かれるのは地元の不幸だ。実績のほとんどない4年に続く次の4年間に実績が期待できるはずもないが、町政衰退を許す住民感情と、「ヨソ者よりはマシ」の排他的ムラ感覚を覆すほどの時間は、私にはなかった。
 落選の結果にスタッフは落ち込んだが、私自身は気落ちすることなく、「よく一ヶ月がんばった」というのが素直な気持ちだった。11月10日の立起表明からたったの20日で、名前も顔もほとんど知られていなかった私が、3割の票を集めたことを誇っていいと思う。
 3割の力が地域を変える方向に向かうために、私に何ができるか。期待の声だけで動いた若い時のようなことはもうできないが、私を応援した人たちの動きが高まれば、一緒に何かをやれそうな気はしている。ヨソ者の 声に破れし選挙戦 支持せる二千の 票を紡がん

拍手[10回]

PAGE TOP