2014/07/17 Category : エッセイ 集団的自衛権をどう考えればよいのか 閣議決定の効力について、民主党の武正公一議員の質問に対する政府回答がある。「閣議決定の効力は、原則としてその後の内閣にも及ぶというのが従来からの取扱いとなっているが、憲法及び法律の範囲内において、新たな閣議決定により前の閣議決定に必要な変更等を行うことは可能である。」 個別自衛権についての限界、集団的自衛権行使の課題をあらゆる面から議論する必要があるのに、国会議論の前に外遊先で「集団的自衛権の行使容認」を積極発言し、外堀を埋めて見える安倍首相。その海外発言報道が多いほど、閣議決定で、未来が決まってしまったかのような錯覚を起こさせる。 小選挙区制の弊害、派閥解消の反動で、自民党内の反対論も封殺される。35%の国民支持しか比例区で得ていない自民党に憲法の実質改定を迫られる。地方議会1800の内160ほどの議会が反対表明をしているのは不幸中の救いではあるが、首相発言の論理矛盾を報道する番組も皆無といっていいほどだ。「何か変だ」と思っているうち、検証されないまま次々と事態が進行し、のっぴきならないところに国民は導かれる。まるで誘導販売でとんでもないものを買わされる消費者のようだ。 戦後70年になろうとしている今、集団的自衛権行使容認の議論をしているのは、戦争体験のない政治家たちだ。テレビ朝日が行った緊急アンケートでは、NGO24団体中18団体が、自衛隊による『人道支援の民間人』を支援することに<反対>と回答した、という。 アフガニスタンで活動するペシャワール会の医師、中村哲氏は言う。「安倍首相は記者会見で、『海外で活動するボランティアが襲われても、自衛隊は彼らを救うことはできない』と言ったそうですが、全く逆です。命を守るどころか、かえって危険です。私は逃げます。」「九条は数百万人の日本人が血を流し、犠牲になって得た大いなる日本の遺産です。九条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられたのです。」 戦争の悲惨を実体験した人や、戦争状態の現場にいる人の言葉は重い。戦後の平和憲法を作った先人の多くはすでにこの世にいないが、もし今、彼らに70年後の今の日本の状況を示して、集団的自衛権行使の可否を聞いたら何と言うのだろうか、そういう視点で、憲法の重みを考えなければならない。 集団的自衛権の行使を許せば、自衛隊への志願者は減り、徴兵制度の検討が絵空事ではなくなろう。相対的に過激な性向の隊員が増え、あおったり、あおられたりしながら不測の事態は勃発するとさえ思える。 福島第一原発所長の吉田所長と東京電力本社の事故当時のやりとりのように、現場を知らない者があれこれ言っても、戦場では想定を超えた事態が次々と起こるに違いない。集団的自衛権の行使に歯止めをかけると言っても、戦争現場で歯止めのふるいが機能するとは思えない。 アメリカから強い要請があったわけでもなければ、国際緊張が別次元に高まり、集団的自衛権行使を今すぐ決めなければならない事態になっているとも思わない。逆に集団的自衛権行使を容認すれば、不測の事態を引き起こすリスクの方が格段に増すだろう。想像させる歴史事実がある。 1964年ベトナム戦争の契機となったトンキン湾事件が起きた。北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したというものだった。7年後ニューヨーク・タイムズの記者がペンタゴンの機密文書を入手して米国が仕組んだ事件だったと暴露した。当時の国防長官ロバート・マクナマラも1995年には「北ベトナム軍による攻撃はなかった」と告白している。 2001年9・11同時多発テロ事件が起きた。テロ再来を恐れるあまり、米国は大量破壊兵器があるとして2003年イラクに侵攻した。アナン国連事務総長は国際法上根拠を持たない「違法な行為」と批判した。ドイツやフランスはイラク侵攻に強硬に反対した。アメリカと行動をともにしたイギリスでは、反対する閣僚の辞任が相次ぎ、ブレア元首相への責任追求の国民の声は今も絶えない。 当時の小泉首相が大量破壊兵器について「アメリカがあると言うからあるんでしょう」と発言していた記憶が鮮明に残る。国際協力を巡る湾岸戦争以降の日本の対応が正しかったのか、そんなことを検証する番組はどれだけあるのだろうか。民主主義成立の欧州との背景の違いを考えれば、この種の大事に日本人は疎い民族なのかも知れない。だからこそ議論は尽くしに尽くさねばならない。 新自由主義の行きついた所は、極端に言えば、1%の富裕層が99%の人の暮らしや生命を左右する格差社会だった。戦後のアメリカとの共同歩調が今の形のままずっと続くのがいいのか。 環境保全、公害防止、高齢者医療介護、六次産業化による地域自立、そして原発廃炉技術など、今後アジア新興国でも起きてくる課題を先行経験し、解決していく日本の姿の中にこそ、国際貢献、アジア平和のためになすべきことが凝縮されているように思える。急激な経済成長に民主主義が追いつかない中国に、逆に体制強化に資することになるような口実を与えるべきではない。 今年1月のダボス会議直後、豪日刊紙オーストラリアンに載ったという記事を、千葉大学教授の酒井啓子氏が日経紙に紹介している。「もし今年、第三次世界大戦が起きるならこんな感じだろう。中国の漁船が東シナ海の係争中の島に接近し、日本の海上保安庁がこれを襲い漁民は逮捕され発砲がなされる。北京は最後通告を出し、東京は日米安保条約を発動する」 5月15日の記者会見で安倍首相は言った「・・・巻き込まれるという受け身の発想ではなくて、国民の命を守るために、何をなすべきかという能動的な発想を持つ責任があると、私は思います。・・・」http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0515kaiken.html 憲法九条の精神を護る立場の人ならどう言うだろうか。「・・・(戦争に)巻き込まれないように、憲法九条の平和主義を国際社会に訴え、戦争で荒廃した国の民生安定に積極的に貢献していくという、能動的な発想を持ち続ける責任があると、それが日本国民の命を守ることになると、私は思います。・・・」 国民は今、未来社会の選択を迫られている。 [7回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword