2014/09/18 Category : エッセイ 地方再生の視点 オーディオの老舗パイオニアが音響部門を手放し、カーナビ部門へと転換するという。ソニーの凋落も激しい。書籍や新聞は電子配信され、食料品や衣類もネットで購入する時代となり、これまで日本経済を牽引してきた産業は大きな転換点に立っている。 日本の大企業が時代の変化に乗り遅れ、バタバタと落ち込んでいく現状を、20年前に予想した人はどれほどいたのだろうか。加速する情報社会、拡大経済はグローバル化の側面だろうが、大企業の凋落は、これまでの日本企業の意志決定が、時代変化のスピードについて行けない証左でもあろう。 成長(拡大)には資源の枯渇や、環境汚染などのマイナス面がある。かつては、完全雇用という目標を達成する手段として成長が必要だと考えられたが、現在では成長が目的化され、生産拠点や雇用の場が海外に移転し国内の失業が増えても仕方がないことと考えられている。経済はどこまで<成長>し続けねばならないものなのだろうか?世の中がここまでおかしくなってくると、巨大企業や利権集団に都合の良い<成長>という名に隠れた<欲望>に、地球が牙をむき始めているような気さえしてくる。 すでに地球の保持能力の1.5倍と言われる人間活動である。資源消費と環境汚染の排出レベルを地球自体の許容範囲、復元能力の中に抑えながら、「豊かな暮らし」をどう実現していくのか。多分に精神的な側面は含むが、「地方再生」もそういう視点から注視していかねばならない時代と思える。 「役員報酬を下げたとしても電気料金を下げられる程にはならない」と、再値上げを平然として言った北海道電力社長。値上げの認可権限を握る国でさえ呆れる発言だった。コミュニティの崩壊で声なき底辺層が増える中、私と同世代の、痛みの分からない人が社会の上部に目立つのは残念だが、これも成長至上主義の側面なのかもしれない。 思い出すのはM市にある、私が生まれるずっと前からある天ぷら店だ。昭和天皇もその天ぷらを口にしたくらいだから、味は一流だが別に気取った店構えではない。M市も人口が激減し、今はさすがにその場面に出合わないが、昔は昼を少し過ぎたころに閉店ということがよくあった。一日の売上量が決まっていたからだ。昔ながらの味と感じるのは、郷愁からばかりではなく、味付けを時代の変化に合わせて工夫してきたからではないのか、とも思う。奉公人にのれん分けはしても、自ら支店を出したり店を大きくしようとはしない、客を第一とする、その店の頑固さが、今も客が切れない長寿の一因だろう。 日本には長寿企業が多い。世界にある創業200年を超える企業の半分以上3146社が日本に集中しているという。創業千年を超える企業が7社もあり、500年以上も32社あるそうで、日本はまさに「長寿企業大国」と言えよう。共通するのはその90%は従業員数300人未満の中小企業であり、韓国銀行の分析では、「本業重視、信頼経営、透徹した職人精神、血縁を越えた後継者選び」などを長寿要因に挙げている。従業員数300人程度の企業ならば経営陣も末端まで目も届こうし、今はうまくいっているかに見える先行き不安部門から、期待部門へと先行投資の決断も素早くできる。 明治以前は日本も藩ごとに独立した統治機構があった。単純化して考えれば、封建時代の主従の関係が、今では横の関係になっている(はずの)国と自治体の関係だろう。手厚く保護されたわけではない幕藩体制下での方が、今の自治体より自律と自立の精神に富んでいたのではなかろうか。貧しい時代ゆえ尚更、生きるために必要だった工夫や助け合いの精神も、今より濃密だったような気がする。 封建時代が良いというのではもちろんないが、消滅を懸念される自治体の首長や議会議員は、安易なカジノ誘致や、これまで通りのバラマキ行政への期待を言うのではなく、長寿企業の生き残る工夫や、藩政逼迫時の自律と自立に向けた改革の歴史を振り返って、次世代に対し果たすべき職責を考えてみる必要があるように思う。 [4回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword