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碧濤のひとりごと

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想像力の欠如

 2030年、北海道新幹線は札幌まで延伸される。早期開通をマスコミも多くの道民も願っているように見える。鉄道事業に対する想像力の欠如は、国政の劣化を招いている想像力の欠如と似ている。
 昨年8月、JR北海道は留萌本線の留萌-増毛間の運行を廃止すると発表した。高波被害で運休が続く日高線では、関係自治体に対し「復旧工事で国に補助金を要請するならば日高線を持続させる仕組みをセットで構築することが不可欠」と釘を刺した。つまりJRだけに負担を求めるなら路線存続はできないということだろう。
 2030年の北海道の人口推計値は468万人。2040年には419万人というから2050年には400万人の大台を切るだろう。
 鉄道事業は毎年300億円の赤字を出している。3月開業予定の新青森―新函館北斗間の収支も毎年約50億円の赤字という。札幌延伸まで赤字が続くと累計700億円となる。開通から30年を経た青函トンネルは保守に毎年20億円を要している。延伸時の国の財政状況は現在以上に悲観的であり、今後JRへの支援が増えるとは思えない。JRの自助努力にも限界があり、今後、更なる地元負担を求めてくることは容易に想像される。釧網線、宗谷線、根室線などの廃止も議論されよう。
 半世紀前、テレビに映る一般アメリカ人家庭の暮らしぶりを、日本人の多くが羨望の目で見ていた。アメリカに近づくことが明日のエネルギーでもあった高度成長期を経てバブルがはじけるまで20年、その羨望の多くは手に入れた。主婦は家事から解放され、主要道路の幹線網は形成され、不便な日常生活は大方解消された。人口減少、貧困層の増加などで需要が減少するのは当然だ。デフレ対策で市中に金をばらまいても、庶民の多くはつましい暮らしを選択する。
 「バブル後」と言われてからもすでに20年が過ぎたが、20年前に少子高齢化で未来が危ないと、真剣に問題提起する政治家はどれほどいただろうか。当時はすでに、土木事業の景気刺激効果が疑問視され始めていたが、環境、クリーンエネルギー、ICTの公共政策を未来に向けて示した政治家はどれほどいただろうか。
 今、グローバル社会の深化、ICT化の進行で、行き場所(生き場所)のない労働者は劣悪なブラック企業に放置されたまま、格差社会が進行している。
 貧困大衆の第一の関心は、明日の希望より今日食う飯にあるから、「強い日本」「一億総活躍」など聞こえのよいキャッチフレーズに惹かれ、一時しのぎの「給付金」に騙される。期待した政権交代への失望感は消えないまま、進むべき未来像が見えないから、公約反故の詐欺的解説に納得する。「安倍首相は外交・内政とも一生懸命やっている。自信に満ちていて信じられそう」という衆愚的幻想が政治を支配しているように見える。
 広い大地、豊かな自然、冷涼な空間を持つ北海道のポテンシャルは高い。温暖化で作物適地が少しずつ北に移動し、北極海航路の中継基地としての役割も期待される。福島の原発事故以来、食料やクリーンエネルギーの供給基地として、北海道は未来の日本の保険としても重要な位置を占める。
 保育、教育、介護、労働などの今日的課題は旧来政策の帰結である。聖書に言う。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ」と。新しい(需要環境)には新しい(供給システム)が必要だ。
 1973年の新幹線整備計画時、40年後にはLCC(格安航空会社)が登場し新幹線と航空運賃が競合するとか、財政事情が悪化し続け、国の借金が1千兆円を超える事態になると誰が想像しただろうか。人口減少の推計には目をつぶり、バラ色の未来をちりばめて整備計画としたはずだ。
 いま、新函館以北の新幹線を新たに計画しても現計画と同じになるのだろうか。そのような視点で、現計画決定の重要ファクターを洗い直し、今日的ファクターを加味して、その実効性を高めるのが「広域自治体」としての北海道の役割ではないか。
 北海道にとって観光振興は大きな柱ではあるが、物流拠点としての新千歳空港については過去から議論があった。いまや空港の活性化は空港関係者のみで議論する時代ではない。新幹線の視点を札幌から新千歳空港に移し、鉄道と空港の一体的活用による経済効果から再考してはどうか。
 人口減少による交通網の再編は時代の流れではあるが、拠点都市の繁栄なくして、町村を含む北海道の元気はあり得ない。道内空港も新千歳空港、北海道新幹線と有機的に結びつけた「時のアセスメント」として、賢人の英知を結集すべき時であろう。
 知事はじめ基礎自治体の長が、「新幹線を札幌に延伸さえすれば北海道の未来が明るくなる」と単純に思っているなら、未来の人たちに無能なリーダーだったと言われるだろう。 10年後の沿線自治体がどうあるべきか、それに向かっていま踏み出さないならば、「この10年あなたの自治体は何をしていたのですか」と言われて、地方路線は消滅し、赤字沿線の自治体は消えていくことになるであろう。北海道新幹線への期待と現実は、国政の縮図であると思う。

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戦後70年首相談話

 戦後70年の安倍首相談話を聞いて、ある事件を思い出した。平成13年4月三軒茶屋駅で銀行員が18歳の少年2人に殴られて死亡し、東京地裁で懲役3年以上5年以下の不定期刑の実刑判決が下った。反省の色が見られない2人に裁判長は、「さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか。この歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と語った。「償い」は実話を元にした歌である。加害者の誠意が被害者の妻に通じたときに加害者は救われ、同時に被害者の妻も加害者を通じて救われている、と感じたものだ。

 月末になると ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに 必ず横町の角にある郵便局へ飛び込んでいくのだった。仲間はそんな彼をみて みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと飲んだ勢いで嘲笑っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり。僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前に一度だけたった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ。
 配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影にブレーキが間に合わなかった 彼はその日とても疲れてた。
 「人殺し あんたを許さない」と彼をののしった被害者の奥さんの涙の足元で 彼はひたすら大声で泣き乍らただ頭を床にこすりつけるだけだった。
 それから彼は変わった 何もかも忘れて働いて働いて 償いきれるはずもないがせめてもと毎月あの人に仕送りをしている。
 今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んできた しゃくりあげ乍ら彼は一通の手紙を抱きしめていた。それは事件から数えてようやく七年目に 初めてあの奥さんから 初めて彼宛に届いた便り。 
 「ありがとう あなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました だからどうぞ送金はやめてください あなたの文字を見る度に主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど それよりどうかあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
 手紙の中身はどうでもよかった それよりも償いきれるはずのないあの人から返事が来たのがありがたくてありがたくてありがたくて ありがたくて ありがたくて。
 神様って思わず僕は叫んでいた 彼は許されたと思っていいのですか 来月も郵便局へ通うはずの優しい人を許してくれてありがとう。
 人間って哀しいね だってみんなやさしい それが傷つけあって かばいあって。
 なんだかもらい泣きの涙がとまらなくて とまらなくて とまらなくて。

 
歌を思い出したのは、談話の中で「・・あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません・・」というフレーズが耳に付いたからだ。
 安倍政権の支持率を少し上げ戻したという、何かしら心地よく耳に響くフレーズではある。しかし、十分謝ったかどうかは加害者が決めることではない。被害者が、「もう謝罪は十分です」と言わない以上、謝罪は続けるべきではないのか。そもそも被害者が何度も謝罪を求めるのはなぜであるのか。
 いじめでも、被害者の心の傷はおしなべて深いが、加害者の反省の意識には、様々な段階があり、両者には大きな乖離がある。鳩山元首相が韓国の慰霊碑に額ずいたからといって、侵略した国家が心からの謝罪をしたということにはもちろんならない。まして侵略戦争なら<子や孫、その先の世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない>からこそ、戦時・戦後の記憶の濃い今の世代が、機会ある毎に謝罪を行い、できうる償いを重ねることに何をはばかることがあるのだろうか。
 国と個人では謝罪の意味・重みが違う、同列の議論にはなり得ないという考えもあろう。しかし国家に擬制した侵略決定のプロセスについて、戦後どれほどの議論、反省があったのだろう。その議論、反省への不審こそが謝罪を何度も求められる根源になっているのではないか。
 侵略した「国家」とは何か。国家そのものに実体はない。侵略を決定するのは<国家>の言葉に隠れた<人>である。戦後70年も経つのにその議論、ツマリ隠れた人、その人が育つ組織、その組織が力を持つに至った背景を明らかにする議論が少なすぎる気がしてならない。だから政治が劣化し、武藤貴也議員のような発言[l
SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だが出てくるのではないのか。
 オリンピック施設関連整備費の、見積もりとの甚だしい乖離も、原発事故の検証や再稼働許可のありようも、その背景に、責任の所在が不明確なまま堀が埋まっていく決定プロセスが、今に生きている気がする。

 世界は全く新しい時代に入っている。新興国の台頭、民族紛争の頻発、地球規模の環境破壊、インターネット網の拡大・・・。
 グローバル世界の中で、いまや国内景気が回復すれば税収が上がり借金が返せる、などという言葉を真に受ける単純な市民はいまい。経済成長は期待できず、財政悪化、格差の是正などに、応分の責任と負担を覚悟をしなければならない時代に入っていることも知っている。経験したことのない成熟社会、人口減少下の今だからこそ、<発展>という言葉にも新しい「価値観」と「尺度」が必要であろう。
 その今を、民主主義を口にしながら、真逆の方法で、多くの国民が望まない重大施策を堂々と進めようとしている。周辺国には「70年前と何ら変わらない日本」と映っても不思議はない。
 万が一に備えるという政策は正しい。しかし、万が一殴られたら直ちに殴り返すという万が一であってはならない。どうして殴ったのか、否、どうして殴ろうとするのかを聞ける態勢にあること、そのシステムを組み込んで初めて「万が一に備える」という政策に国民理解が得られよう。
 私には、子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、あの世からも謝罪をしかねない、愚かな選択をしつつある政権が、「歴代政府の歴史観を継承している」とはとても思えないのだ。<コピペ>の反省フレーズで覆っただけの、言葉遊びのような、戦後70年首相談話にしか聞こえなかった。

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空手のオリンピック競技化について

 6月17日の新聞に、空手のオリンピック競技化に反対する作家、今野敏氏の標題記事があった。空手愛好家の一人として、私も以下の理由から反対である。

 世界的に空手愛好者が増える中、国内的には少子化とスポーツの多様化で、武道に打ち込む若者の数は低迷している。空手関係団体などに危機感があるのは当然と思える。
 もともと武道はスポーツとは別の世界だ。武道では作為を嫌う。競うことに心縛られることも嫌う。
 例えば、日本弓道。矢を放つには指を放さないと飛んでいかないが、弓聖といわれた阿波研造は「放してはいけない」と言った。
 「放すということは、この指を使うとか、上手く放して的に当てようとかの欲望、作為が出る。作為があると、作為の微妙な心の気持ちが反映して放れは乱れてくる。そういう作為と闘ってそれを消そうと努める。同時に体の力も呼吸で抜けて来ると、心と身体との闘いの極致で、自ずから弦の手は放れて矢は飛んでいく」
 弓道では<放して当たった>射よりも、当たらなくとも<自ずと放れた>射の方を上と見る。それを見抜く熟達者の世界がある。
 オリンピックの採点では素人目にも分かる公平・公正な点数化が必要だから、「オリンピックキュウドウ」をもし考えるとすれば、①的中矢数を競い、②射法八節に表現細則を定め、演技の誤差を数値化して優劣を判断するような審査基準をつくらなければならないだろう。①だけならアーチェリーと同じである。見える指標①、②で優劣を決する「キュウドウ」は、見かけは同じでも、「弓道」とは全く別のものである。
 空手でも同様のことが言える。上級者の「組手」は「自由一本組手」で足りる。熟達者もそこに心の乱れや作為を見抜く。勝った方にそれを見、負けた方を上とすることも武道としてはあり得る。しかし競技スポーツとなれば「クミテ」として手数の多さで優劣を競う①のようなかたちにならざるを得ない。
 一人で演武する「形(かた)」も、身体能力の優劣や表現力を競う世界とは別次元のもので、熟達者にしか見えない要素を多分に含む。見えないものも見て「形」の良し悪しを判断する。しかし、オリンピック競技とするには、「カタ」として身体の柔軟性や筋肉の質で限定される②のような審査基準をつくらざるを得ない。「クミテ」も「カタ」もスポーツとは言えても、武道空手に言う「組手」でも「形」でもない。
 剣道界や弓道界が一枚岩でいられるのは、若者を引きつける競技のスポーツ的側面のほかに、競技性を超えた八段審査などがあるからだろう。競技の優秀者だから審査に合格するわけではない。競技性とは別の価値観に根ざした「武道世界」を目指し、剣士、弓士の高段者達は終生努力する。
 残念ながら、今の空手界はスポーツと武道が大同団結したような組織になってはいない。関係者はさらなる広がりをオリンピック化で期待しているのかも知れないが、かなりのカラテ指導者が武道を偏向認識している現状を考えると、「カラテ」を「空手」として国際化される方を恐れる。「柔道」が「ジュウドウ」となって、スポーツ的側面が強調され、武道的精神が失われていった組織の二の舞を演じることを恐れる。オリンピック競技化に反対する理由である。

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同調率

 新春早々のトーク番組の中で紹介された「アッシュの同調実験」に興味を引かれた。大阪大学大学院・釘原教授が行った実験は、一本の直線Aが引かれている紙を学生被験者に見せ、その後、明らかに違う長さの2本の直線B、Cを加えたもう一枚の紙を見せて、初めの紙に引かれた線と同じ長さのものはどれかを答えさせるというもの。実は最後に答える学生被験者以外は皆サクラで、サクラ全員がCと答えると、被験者はAと思いながらも、口ごもりつつCと答えてしまうのだ。
 教授は、この「同調率」が過去より高くなっていることが予想外だったと言うが、私はこの実験結果に納得してしまった。たしかに、我が国の若者に優秀な人材が減っているわけでもなく、自由奔放な活動も見られるし、スポーツでも世界に活躍する選手が多くいて、個性が輝いている。一見、人の意見に左右される層が増えている状況にはないようだが..。
 数年前、妻が息子の友人に「ご飯のおかわりは?」と聞いたとき「だいじょうぶです」と答えたのに違和感を覚えたことがあった。お腹が一杯なのか、まだ食べられるけど遠慮するのか、どっちなんだと。その後、食事以外のいろいろな場面でこの種の「だいじょうぶです」が巷に溢れていることに気付いた。
 先日、この話を仲間内の勉強会でしたら、「授業中の学生の私語が止まず、『教室から出ていけ』と叱責したら、『だいじょうぶです』と答えられて面食らった」という先生がいた。「だいじょうぶです」の使い方もここまでくると別次元の話になるのかもしれないが「答えていない答え方」が多くなってはいないだろうか。
 息子と友人との会話には、「何時『くらい』に、あそこ『あたり』で会おう」などのあいまいな表現が多く、家庭内の会話でも、時折語尾が消え入りそうに聞こえることがある。就職活動の不調が続くうちにこうなってしまったのかと多少の同情もあって、2回に1回は敢えて注意をせずにいるが、「傷つきたくない」、「傷つけたくない」という気持ちがこういうあいまい言葉に現れているなら、その背後にある社会環境の変化は見過ごせない気がする。
 注文の復唱確認に店員が「これでよろしかったですか」と過去形で聞くのにも、何となく違和感をおぼえていたが、これも同調率が高いということと無関係ではない気がする。過去形で聞く方が、店員の方が聞き違えたと、客の心情を傷つけずに済む配慮が微妙に感じられなくもないからだ。
 最近のヘイトスピーチに代表される差別や偏見を増長させるような言葉を吐く人が集団化してくると、大衆層の若者は、ますます狭い殻に閉じこもるか、迎合してより弱い者に矛先を向け出すのではないか、と思える。ネットの匿名性を隠れ蓑にした偏見集団が形づくられることもあろう。ここに言う大衆層は、現今の政治経済利権社会の上部の2%(1%?)を除く人たちという程度の意味であり、個別の人間能力を差別して言っているのではない。
 私たち世代の多くは、その大衆層の中で議論し、多少の激しい言葉のぶつかり合いも経験として生きて老いてきたが、その経験は自分の確固とした思想、論理を持つためというより、生き抜く人間力というか、生きるに必要な「直感力」を育むことに貢献したように思える。だから、ふてくされてもたくましく生き抜いているうちに、実際の現象が少数派や負け組に逆転する場面に出くわすこともできた。
 今の時代は、大衆層の中での若者の議論や経験が不足している気がしてならない。少数派の声が聞こえにくく、議論や経験ができない雰囲気が増しているのかもしれない。結果、直感力が弱くなる。
 同調率が高い社会は危険である。
 専門家においてさえ賛成派、反対派が飛び交う、複雑化、多様化した社会の判断は、大衆にとっては人間力に裏打ちされた直感力で判断するしかない。例えば原発問題や防衛問題。その集約結果が選挙だろう。選挙を通じて大衆は上の2%層とようやく渡り合えるが若者の選挙離れが進んでいる。同調率が高まると更に選挙離れが進むのではないか。それでは2%層に都合のいい社会になるばかりだ。
 直感力を磨くには、経験しかない。埋没している若者が、人間らしく生き残れるために必要な直感力を育む場をつくっていく必要がある。政府の地方創生には大した期待はしていないが、自治体政策にはこのような視点も忘れてほしくないと思っている。

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選挙

 アベノミクス解散だと言うが、経済専門家でも議論が二分している施策を一般国民がどう判断せよというのか。急ぐ理由のない解散に意味を付けるなら、本当の争点はそれではないところにあると思える。
 イラク戦争に際し、我が国は人道復興支援活動として6年間で延べ1万人の自衛隊員を送り、比較的治安が安定しているとされたサマーワを中心に安全確保支援活動を行った。サマワ宿営地は13回、22発のロケット攻撃を受けたが、死者は出なかった。記念式典(隊旗返還式)では、活動を終えた隊員に、当時の小泉首相が「全員が無事帰国できた・・・」と述べた。しかし、帰国後、隊員の自殺者が28人も出ていたことが、今年4月のNHK「クローズアップ現代」で放映されていた。
 国家とは領土、国民、統治権から構成される概念だ。「国を守る」と言うと聞こえはよいが、問題は統治権行使の主体である。統治権は選挙によって為政者に託されているが、福島原発事故後の国の対応を見れば、為政者の影に連なる利権集団の<自衛権の行使>により、統治権は多数の国民の願いとは違う方向に使われているようだ。
 閣議決定で憲法解釈を変えるというのも、民主主義から遠いところにある。集団的自衛権の発動となった場合、「特定秘密保護法」を根拠に、発動決定に至る具体的背景などは国民から更に遠い情報となるであろう。
 若者の多くが自衛隊を「就職先」として考えているなら、生死に直面するリスクの高い「職場」への志願者も減るだろう。少子化がさらに進めば徴兵制につながる道を開くことが懸念され、「憲法を変えなければ集団的自衛権が行使できない」とさえ言われかねない。様々な疑念に対し、防衛がどうあるべきかの議論は尽くされてはいない。秘密保護法も同様である。「企みを挫く」という首相の言葉はどの国を念頭にしているのか、中韓朝への国民不安を煽るだけで、憲法解釈の変更がなされたように感じた人は多いはずだ。

 アベノミクスの結果はいずれはっきりするが、へそ曲がり的に見ると、余裕ある世代、階層であっても政府が望むようには金を使わないと思える。非正規労働者の比率は40%近く、2千万人近い。非正規労働に甘んじる子を持つ親は、子どもの未来への不安から貯蓄に走るだろう。いくらかの余裕を株式等に注いでいる親にしても、その運用益は再投資され購買力の底上げは限られよう。
 正規労働者も増えるとは思えない。産業構造の転換に伴って、必要な正規雇用そのものが少なくなっている。情報技術の発達により、かつての庶務や管理などの業務は大幅に機械化され、人員の整理が進んだ。さらにグローバル経済の発達により、企業は、リスク分散のための海外進出や非正規労働者の調整で景気の世界的変動に対応しようとする。国内事情や政治要請だけで動けないほど、多くの企業が変質し国際競争にさらされている。埋もれた労働力、貧困にあえぐ労働力の行き場をつくらねばならない。

 地方の時代が言われだしてから40年以上が経つが、各地で一村一品運動などに取り組み出した当時は、成熟社会の未来像をまだ思い描けてはいなかった。政党も欧米に追いついた後の日本の進むべき未来を示せなかった。しかし今、想像力を働かせれば、未来はかなり見えてきたように思える。
 それは新たな労働集約型の産業を地方で興し、正規雇用を増やすことだ。少々経済的に苦しくても、安全・安心の中で充実した日々を選択したいという国民が確実に増えている。弱者に優しいまちづくり、マイクログリッド、スマートグリッドによる省電力化社会の推進、六次産業による地域循環型社会の形成など、点りだした新産業の芽を育み、組み合わせ、統合発展した「地方の時代」、それが未来に向けた国づくりの柱の一つとなろう。そこに経済再生施策の重点を置くべきだと思う。
 そうは言っても、<無駄>という悪魔はどんな時でもスッと忍びこんでくるものだ。疲弊した自治体においてさえ例外ではない。数年前、再生途上の夕張市で、市営住宅の建て替えが議論された時、計画図面を前に、風呂はいらないと発言したケアマネージャーがいた。夕張は共同浴場でコミュニティが守られてきたし、住む人は風呂掃除も難しく、風呂栓もうまく抜けない高齢者が多いから、風呂より住宅そのものの充実を、と言うのだ。まちづくりの視点は常に現場とともにあるべきなのだ。<利権>という悪魔に対しても、「企みを挫く」同様の視点が必要であることはいうまでもない。

 無駄な箱物行政の愚を見抜き、生活弱者に寄り添い、住民の日常に目を配ることを生業としている人たちの意見を広く酌み取る政治家に一票を投じたいのだが、その人が見つからないで困っている。

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