2015/01/10 Category : エッセイ 同調率 新春早々のトーク番組の中で紹介された「アッシュの同調実験」に興味を引かれた。大阪大学大学院・釘原教授が行った実験は、一本の直線Aが引かれている紙を学生被験者に見せ、その後、明らかに違う長さの2本の直線B、Cを加えたもう一枚の紙を見せて、初めの紙に引かれた線と同じ長さのものはどれかを答えさせるというもの。実は最後に答える学生被験者以外は皆サクラで、サクラ全員がCと答えると、被験者はAと思いながらも、口ごもりつつCと答えてしまうのだ。 教授は、この「同調率」が過去より高くなっていることが予想外だったと言うが、私はこの実験結果に納得してしまった。たしかに、我が国の若者に優秀な人材が減っているわけでもなく、自由奔放な活動も見られるし、スポーツでも世界に活躍する選手が多くいて、個性が輝いている。一見、人の意見に左右される層が増えている状況にはないようだが..。 数年前、妻が息子の友人に「ご飯のおかわりは?」と聞いたとき「だいじょうぶです」と答えたのに違和感を覚えたことがあった。お腹が一杯なのか、まだ食べられるけど遠慮するのか、どっちなんだと。その後、食事以外のいろいろな場面でこの種の「だいじょうぶです」が巷に溢れていることに気付いた。 先日、この話を仲間内の勉強会でしたら、「授業中の学生の私語が止まず、『教室から出ていけ』と叱責したら、『だいじょうぶです』と答えられて面食らった」という先生がいた。「だいじょうぶです」の使い方もここまでくると別次元の話になるのかもしれないが「答えていない答え方」が多くなってはいないだろうか。 息子と友人との会話には、「何時『くらい』に、あそこ『あたり』で会おう」などのあいまいな表現が多く、家庭内の会話でも、時折語尾が消え入りそうに聞こえることがある。就職活動の不調が続くうちにこうなってしまったのかと多少の同情もあって、2回に1回は敢えて注意をせずにいるが、「傷つきたくない」、「傷つけたくない」という気持ちがこういうあいまい言葉に現れているなら、その背後にある社会環境の変化は見過ごせない気がする。 注文の復唱確認に店員が「これでよろしかったですか」と過去形で聞くのにも、何となく違和感をおぼえていたが、これも同調率が高いということと無関係ではない気がする。過去形で聞く方が、店員の方が聞き違えたと、客の心情を傷つけずに済む配慮が微妙に感じられなくもないからだ。 最近のヘイトスピーチに代表される差別や偏見を増長させるような言葉を吐く人が集団化してくると、大衆層の若者は、ますます狭い殻に閉じこもるか、迎合してより弱い者に矛先を向け出すのではないか、と思える。ネットの匿名性を隠れ蓑にした偏見集団が形づくられることもあろう。ここに言う大衆層は、現今の政治経済利権社会の上部の2%(1%?)を除く人たちという程度の意味であり、個別の人間能力を差別して言っているのではない。 私たち世代の多くは、その大衆層の中で議論し、多少の激しい言葉のぶつかり合いも経験として生きて老いてきたが、その経験は自分の確固とした思想、論理を持つためというより、生き抜く人間力というか、生きるに必要な「直感力」を育むことに貢献したように思える。だから、ふてくされてもたくましく生き抜いているうちに、実際の現象が少数派や負け組に逆転する場面に出くわすこともできた。 今の時代は、大衆層の中での若者の議論や経験が不足している気がしてならない。少数派の声が聞こえにくく、議論や経験ができない雰囲気が増しているのかもしれない。結果、直感力が弱くなる。 同調率が高い社会は危険である。 専門家においてさえ賛成派、反対派が飛び交う、複雑化、多様化した社会の判断は、大衆にとっては人間力に裏打ちされた直感力で判断するしかない。例えば原発問題や防衛問題。その集約結果が選挙だろう。選挙を通じて大衆は上の2%層とようやく渡り合えるが若者の選挙離れが進んでいる。同調率が高まると更に選挙離れが進むのではないか。それでは2%層に都合のいい社会になるばかりだ。 直感力を磨くには、経験しかない。埋没している若者が、人間らしく生き残れるために必要な直感力を育む場をつくっていく必要がある。政府の地方創生には大した期待はしていないが、自治体政策にはこのような視点も忘れてほしくないと思っている。 [6回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword