忍者ブログ

碧濤のひとりごと

Home > ブログ > > [PR] Home > ブログ > エッセイ > 空手のオリンピック競技化について

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

空手のオリンピック競技化について

 6月17日の新聞に、空手のオリンピック競技化に反対する作家、今野敏氏の標題記事があった。空手愛好家の一人として、私も以下の理由から反対である。

 世界的に空手愛好者が増える中、国内的には少子化とスポーツの多様化で、武道に打ち込む若者の数は低迷している。空手関係団体などに危機感があるのは当然と思える。
 もともと武道はスポーツとは別の世界だ。武道では作為を嫌う。競うことに心縛られることも嫌う。
 例えば、日本弓道。矢を放つには指を放さないと飛んでいかないが、弓聖といわれた阿波研造は「放してはいけない」と言った。
 「放すということは、この指を使うとか、上手く放して的に当てようとかの欲望、作為が出る。作為があると、作為の微妙な心の気持ちが反映して放れは乱れてくる。そういう作為と闘ってそれを消そうと努める。同時に体の力も呼吸で抜けて来ると、心と身体との闘いの極致で、自ずから弦の手は放れて矢は飛んでいく」
 弓道では<放して当たった>射よりも、当たらなくとも<自ずと放れた>射の方を上と見る。それを見抜く熟達者の世界がある。
 オリンピックの採点では素人目にも分かる公平・公正な点数化が必要だから、「オリンピックキュウドウ」をもし考えるとすれば、①的中矢数を競い、②射法八節に表現細則を定め、演技の誤差を数値化して優劣を判断するような審査基準をつくらなければならないだろう。①だけならアーチェリーと同じである。見える指標①、②で優劣を決する「キュウドウ」は、見かけは同じでも、「弓道」とは全く別のものである。
 空手でも同様のことが言える。上級者の「組手」は「自由一本組手」で足りる。熟達者もそこに心の乱れや作為を見抜く。勝った方にそれを見、負けた方を上とすることも武道としてはあり得る。しかし競技スポーツとなれば「クミテ」として手数の多さで優劣を競う①のようなかたちにならざるを得ない。
 一人で演武する「形(かた)」も、身体能力の優劣や表現力を競う世界とは別次元のもので、熟達者にしか見えない要素を多分に含む。見えないものも見て「形」の良し悪しを判断する。しかし、オリンピック競技とするには、「カタ」として身体の柔軟性や筋肉の質で限定される②のような審査基準をつくらざるを得ない。「クミテ」も「カタ」もスポーツとは言えても、武道空手に言う「組手」でも「形」でもない。
 剣道界や弓道界が一枚岩でいられるのは、若者を引きつける競技のスポーツ的側面のほかに、競技性を超えた八段審査などがあるからだろう。競技の優秀者だから審査に合格するわけではない。競技性とは別の価値観に根ざした「武道世界」を目指し、剣士、弓士の高段者達は終生努力する。
 残念ながら、今の空手界はスポーツと武道が大同団結したような組織になってはいない。関係者はさらなる広がりをオリンピック化で期待しているのかも知れないが、かなりのカラテ指導者が武道を偏向認識している現状を考えると、「カラテ」を「空手」として国際化される方を恐れる。「柔道」が「ジュウドウ」となって、スポーツ的側面が強調され、武道的精神が失われていった組織の二の舞を演じることを恐れる。オリンピック競技化に反対する理由である。

拍手[7回]

PR

Comment0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword

PAGE TOP