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碧濤のひとりごと

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戦後70年首相談話

 戦後70年の安倍首相談話を聞いて、ある事件を思い出した。平成13年4月三軒茶屋駅で銀行員が18歳の少年2人に殴られて死亡し、東京地裁で懲役3年以上5年以下の不定期刑の実刑判決が下った。反省の色が見られない2人に裁判長は、「さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか。この歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と語った。「償い」は実話を元にした歌である。加害者の誠意が被害者の妻に通じたときに加害者は救われ、同時に被害者の妻も加害者を通じて救われている、と感じたものだ。

 月末になると ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに 必ず横町の角にある郵便局へ飛び込んでいくのだった。仲間はそんな彼をみて みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと飲んだ勢いで嘲笑っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり。僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前に一度だけたった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ。
 配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影にブレーキが間に合わなかった 彼はその日とても疲れてた。
 「人殺し あんたを許さない」と彼をののしった被害者の奥さんの涙の足元で 彼はひたすら大声で泣き乍らただ頭を床にこすりつけるだけだった。
 それから彼は変わった 何もかも忘れて働いて働いて 償いきれるはずもないがせめてもと毎月あの人に仕送りをしている。
 今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んできた しゃくりあげ乍ら彼は一通の手紙を抱きしめていた。それは事件から数えてようやく七年目に 初めてあの奥さんから 初めて彼宛に届いた便り。 
 「ありがとう あなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました だからどうぞ送金はやめてください あなたの文字を見る度に主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど それよりどうかあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
 手紙の中身はどうでもよかった それよりも償いきれるはずのないあの人から返事が来たのがありがたくてありがたくてありがたくて ありがたくて ありがたくて。
 神様って思わず僕は叫んでいた 彼は許されたと思っていいのですか 来月も郵便局へ通うはずの優しい人を許してくれてありがとう。
 人間って哀しいね だってみんなやさしい それが傷つけあって かばいあって。
 なんだかもらい泣きの涙がとまらなくて とまらなくて とまらなくて。

 
歌を思い出したのは、談話の中で「・・あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません・・」というフレーズが耳に付いたからだ。
 安倍政権の支持率を少し上げ戻したという、何かしら心地よく耳に響くフレーズではある。しかし、十分謝ったかどうかは加害者が決めることではない。被害者が、「もう謝罪は十分です」と言わない以上、謝罪は続けるべきではないのか。そもそも被害者が何度も謝罪を求めるのはなぜであるのか。
 いじめでも、被害者の心の傷はおしなべて深いが、加害者の反省の意識には、様々な段階があり、両者には大きな乖離がある。鳩山元首相が韓国の慰霊碑に額ずいたからといって、侵略した国家が心からの謝罪をしたということにはもちろんならない。まして侵略戦争なら<子や孫、その先の世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない>からこそ、戦時・戦後の記憶の濃い今の世代が、機会ある毎に謝罪を行い、できうる償いを重ねることに何をはばかることがあるのだろうか。
 国と個人では謝罪の意味・重みが違う、同列の議論にはなり得ないという考えもあろう。しかし国家に擬制した侵略決定のプロセスについて、戦後どれほどの議論、反省があったのだろう。その議論、反省への不審こそが謝罪を何度も求められる根源になっているのではないか。
 侵略した「国家」とは何か。国家そのものに実体はない。侵略を決定するのは<国家>の言葉に隠れた<人>である。戦後70年も経つのにその議論、ツマリ隠れた人、その人が育つ組織、その組織が力を持つに至った背景を明らかにする議論が少なすぎる気がしてならない。だから政治が劣化し、武藤貴也議員のような発言[l
SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だが出てくるのではないのか。
 オリンピック施設関連整備費の、見積もりとの甚だしい乖離も、原発事故の検証や再稼働許可のありようも、その背景に、責任の所在が不明確なまま堀が埋まっていく決定プロセスが、今に生きている気がする。

 世界は全く新しい時代に入っている。新興国の台頭、民族紛争の頻発、地球規模の環境破壊、インターネット網の拡大・・・。
 グローバル世界の中で、いまや国内景気が回復すれば税収が上がり借金が返せる、などという言葉を真に受ける単純な市民はいまい。経済成長は期待できず、財政悪化、格差の是正などに、応分の責任と負担を覚悟をしなければならない時代に入っていることも知っている。経験したことのない成熟社会、人口減少下の今だからこそ、<発展>という言葉にも新しい「価値観」と「尺度」が必要であろう。
 その今を、民主主義を口にしながら、真逆の方法で、多くの国民が望まない重大施策を堂々と進めようとしている。周辺国には「70年前と何ら変わらない日本」と映っても不思議はない。
 万が一に備えるという政策は正しい。しかし、万が一殴られたら直ちに殴り返すという万が一であってはならない。どうして殴ったのか、否、どうして殴ろうとするのかを聞ける態勢にあること、そのシステムを組み込んで初めて「万が一に備える」という政策に国民理解が得られよう。
 私には、子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、あの世からも謝罪をしかねない、愚かな選択をしつつある政権が、「歴代政府の歴史観を継承している」とはとても思えないのだ。<コピペ>の反省フレーズで覆っただけの、言葉遊びのような、戦後70年首相談話にしか聞こえなかった。

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