忍者ブログ

碧濤のひとりごと

Home > ブログ > エッセイ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

スティーブ・ジョブズ

 5日に亡くなったスティーブ・ジョブズ。彼の死を世界中の人たちが悲しんだ。
 6年ほど前、スタンフォード大での彼のスピーチをメイリングリストで知り、人生を前向きにとらえる生き方に感激した。
 彼が生まれた時大学生であった母は、将来彼を大学に行かせることを条件に養子に出す書類にサインした。養父母は約束通り大学に行かせたが、労働者階級であったため学費の負担は大きく、生涯かけた貯金を使い果たすほどだった。彼は、退学をしたまま大学に通い続け、興味のあったカリグラフィ(飾り文字)のクラスに通って知識を身につけた。その経験は10年後、フォント機能を組み入れたマックコンピューターに生かされる。退学(ドロップアウト)して寄り道(ドロップイン)して成功した、とユーモアを交えながら、彼は学生に言う。
 「もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです」
 コンピューターアニメーションへの展開、それが契機となった結婚やアップルへの復帰も、アップルからの追放があった故と前向きに話す。
 「クビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、そりゃひどい味の薬でしたよ。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。 」
 そして自身への膵臓ガンの宣告経験から、死について、
 「君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まないけど、でもそれが紛れもない真実なんです。君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。」
と話し、最後に 「Stay hungry, stay foolish.」 と締めくくった。
 彼は、56才の人生を生ききったように思う。60年以上を生きながら、あまりの隔たりに自分を恥ずかしくも思う。私たち世代は若者世代に対し、何をしているのだろうか。改めて教えられている。

拍手[0回]

PR

半年が経って

 東日本大震災から半年が経って、津波被災した自治体では、現状の応急手当と並行しながら、復興後の青写真づくりに取り組んでいる。時間の制約もあり、即実施計画となろう復興計画づくりに、困難を極めている自治体が多かろうと想像する。
 私心のない計画づくりでも、結果には住民利害が関係するから、舵取りがしっかりしていなければならない。いつの世も、声のでかい者と、立場の強い者の押しつけの波に弱者が飲み込まれてしまうからだ。
 ところで、運良く被災を免れたものの、今後、津波被害があってもおかしくない自治体では、単なる防災計画の見直しのみにとどまってしまってはいないか。
 万一を想定する困難を一歩すすめて、被災後の復興まちづくりを検討しておくべきではなかろうか。そして、住民合意に向けた個別の問題点を今から整理しておくべきではなかろうか、と思うのである。
 行政はおそらく、「何もそこまで」というのが本心だろうが、総合計画はたてるのだから、想定被災後の基本方針程度の作成は可能であろう。それは総合計画を超えて、多くの住民関心を引きつけるから、まちづくりに住民を参画させる手段としても大いに意味があると思う。
 行政は、集落の再編や移設にあたり、道路、電気、水道などの基盤整備の費用便益を分析比較する。縦割りと言われぬよう移動車でのサービスなども念頭に商店や病院の再配置も考慮するかもしれない。
 しかし、住民は、自分の家や会社がどうなるかを第一に、被災後の生活をあれこれ考えるから、買い物が今より不便になると不満な住民もいれば、学校や病院との距離を重視する住民もいる。全体を一つに見た行政計画とは当然ぶつかる。
 実際に災害が起こってから剣呑な議論をするより、事前に相互理解を深めておくことで、住民と行政の信頼関係が築かれるはずだ。起こってもいないことを事前に想定してやるのは行政のまったく苦手とするところだが、そこに踏み込んだ自治体こそが、次世代のまちづくりの模範になると確信している。

拍手[0回]

ipod

  「古いけど使う?」と言って、息子がipodをくれた。特段、欲しくはなかったが、もらうに越したことはないから、少し大げさに欲しがってみせた。画面の小さいことは高齢者には少し辛いが、結構おもしろく使い始めた。
 自室のパソコンは茶の間のルーターから無線で飛ばしてネットにつないでいるが、ipodがあれば、寝床でも、トイレにいてもインターネットができる。パソコンにため込んだ動画もサイズダウンしてipodに移した。
 機種は古いというが、売り出したのは3年前のことだ。私の年代に3年前は最新型だ。売り出し価格は2万円程度だから、機能を考えれば安い。それ故か、大切に使ったとは思えない画面の傷をこれ以上進めないため、保護シールを求めた。しかし、今出回っている機種は第4世代とかで、2世代前の保護シールは量販店にも見当たらず、百円ショップの売れ残り品にようやく見つけた。たった3年前の機械なのに、それを大切に使いたい人のための関連用品が市中にないのは、おかしいな、と思った。
 そして、一週間ほど使っているうちに自分に腹が立ちだした。寝るために寝床に入るのであり、用を足すためのトイレである。寝付くまで、用を終えるまでの時間は一人熟考すればいいし、あるいは無為の時間でもよいではないか。確かに便利と言えば便利かも知れないが、機械を持ち込む必然性はない。何で、そんな時まで、機械を使い、使われなければならないのだと、次第に馬鹿らしくなってきた。結局、パソコンに収めたスケジュールを持ち出せて、趣味仲間への話題提供に動画再生できればよいだけと思い定めた。
 モデルチェンジが行われ、若者はそれにつられて購買意欲を刺激される。高度成長期はそれでよかったかもしれないが、もの溢れ、少子化で購買人口は減り、企業はモデルチェンジを加速しているように思える。生産のためには当然、<資源>も<電気>も大量に使うはずだ。そのような産業構造の故に原発推進派を増長させてきたのではないのか。
 生産スピードを落としても、企業利益を高め雇用を維持できるシステムがあるべきだ。脱原発を言うなら、その覚悟を自分で再確認することも必要だ。
 外出先で、ipodに移したワールドカップ女子決勝のハイライト映像を見ながら、画面の向こう側に、原発推進一家のほくそ笑む、ずるがしこい顔が見える気がした。

9/19 集会がyoutubeに流れています。後半の武藤類子さんのお話が素敵です。
http://www.youtube.com/watch?v=k5Q5cRWpQaU

拍手[1回]

古賀氏の辞職に思う

  人口が減り、高齢者が増えるということは、生産人口が減り、年金人口が増えるということだから、税収が伸びなければ、年金額を下げるか、税率を上げるか、借金するかしかないだろう。
 しかし、行政内部には丹念に見ていくと、削減できる経費山積みの事業がある。ただ、そこには<族>がへばりついて手を入れさせようとはしないだけだ。今回、公務員制度改革や、電力産業界再編を主張していた、経産省の古賀茂明氏が辞職し(させられ)た。
 彼のような正義感溢れる官僚が、国民目線で政治を動かすことを嫌う、産と結びついた官僚出身の政治家が幅をきかしている今の政界。古賀氏にはぜひに政治の舞台に躍り出て彼らと闘って欲しいと思う。
 私腹のための権謀術数はぶつかり合うが、責任はいつも回避されるのが腹立たしい。潔よさ、清々しさを感じさせる指導者があまりに少ないのが悲しい。
 江戸時代の中期、幕府は木曽川の治水工事を関ヶ原の合戦で敵方であった薩摩藩に命じた。工事費は薩摩藩持ち。無理な幕命に服従するしかなかった薩摩藩は、家老平田靭負(ゆきえ)以下900数十名を美濃に送る。工事の終わり頃には人頭税7倍、船税50倍、藩士の給与は大幅に引き下げられ、平田始め60数名は、たださえ苦しかった藩の財政に負担を掛けた責任をとって自刃する。現代からすれば、責任なき責任を命で償ったのであるが、今も、「薩摩義士伝」として地元に語り継がれている。
 世のため、人のため、という<志>が政治家、公務員選択の動機であるべきだが、いったん政産官の癒着構造に染まると、その甘い蜜の魅力に自己浄化能力はなくなってしまう。定年まで勤めればそれなりの退職金と年金が保証されている公務員だが、能力への自己過信が、より高い報酬への誘惑を絶ちがたくする。官僚が考え出した、退職後の受け皿やシステムは、津々浦々に蔓延り、「特別の知見が不可欠」とか、「競争になじまない」とかの理屈で民間参入を排除している。そういう職場を渡り歩いて億単位の退職金を手にする者もいる。その原資は国民からの血税である。裕福な生涯を送る職業に、公務員を選択されてはたまらない。官僚に現代的義士、つまり高潔な志と責任の取り方のできる人材が少なすぎるように見えてならない。
 内在しているはずの彼らが出現しにくい状況を生んでいるのは、族主導システムに違いない。それを壊すには、責任の所在が明確な行政システムの構築こそが必要だ。情報公開はその有効な手立てだ。
 早期に放射性物質飛散予想を示さなかった責任、放射性物質の基準値を引き上げた責任、不測の混乱を言う前に、国民生命を優先させなかった政治責任は残る。これらが明かされないまま、日本が沈没していくのではないかと心痛い。古賀氏を活用できなかった民主党政権にむなしさを感じている。

拍手[1回]

豊かな暮らしとは

 モノが余るほどになっている今の世の中で、経済成長とはどういうことだろうか、と思う。あと二、三十年もすれば人口が1割減り、老人ばかりが増え、新しいモノに対する興味は薄れて、買い換えるスピードも購入量も減ると思われる。そんな社会で、生産はどこに向かうのか。
 私の経済成長イメージは、「必要以上のモデルチェンジで買い替えさせるシステム」だったような気がしてならない。
 過日のこと、パソコンのモニター画面が時々消えるようになりそのうち真っ黒になった。数年使った後だから、「買い替えようか」とも思ったが、別のパソコンから故障の症状を検索条件にして調べると、この機種に特徴の故障で、モニター内部のコンデンサーが老朽化している可能性があった。
 コンデンサーを取り替えるとか、モニターを分解するということは、私にとっては、「壊す」ことを意味する先入観がある。機械に詳しい友人に経緯を話し、検索結果のサイトも知らせて、ともかく、「壊れても良いから、コンデンサーだけ取り替えてみたい」と話した。
 「試行する価値はある」と笑われながら、材料代100円にもならないコンデンサーを買い、内部で幾分膨れていた、それとおぼしきコンデンサーを1個取り替えてもらったら、直ってしまった。数万円のモニター購入が十円程度のコンデンサーとお礼の晩飯の提供だけで済んだ。
 その時、思った。たった、これだけのことを、全部品丸ごと新品にさせ、買わせるシステムを豊かな社会というのはおかしいと。確かに買い替えねばならない場合も多かろうが、この例のように、ちょっとの手直しで寿命を延ばせるものも多いはずだ。そのような手段が、生産システムや社会システムに組み込まれていないのでは、豊かな暮らしとは言えないのではないのか。
 木の成長が遅い北欧では、木造住宅は、しっかりしたものを作り、それを末永く使う。傷ついた壁や床の表面は削ることでリニューアルする。 かつての日本社会は電気屋も時計屋もそのように機能していた。今も、洋服や鞄など大事に使う人と、大事に使ってほしい職人さん達がいて、修繕するシステムは生き残っている。一方、省電力という言葉で、電化製品は大型化し、省電力にならない。経済成長のそんな面も考え合わせて、来し方を見直し、消費文化のありようを再考したいものだ。買い替えるスピードが落ちてもそれで社会が循環するシステムこそ、成熟社会だ。原子力発電所は必要か、一人一人に問われている時が、今のような気がする。 

拍手[2回]

PAGE TOP