2011/03/26 Category : エッセイ 原発事故に思う(3) 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」の著者で有名な中部大学教授の武田邦彦氏が、私見も交え、専門家の立場から、今回の原発事故の見方を詳しく説明されているのでご覧いただければと思う。http://takedanet.com/ かつて、原子炉格納容器は航空機の衝突にも耐えられる構造と聞いていた。その衝撃に比べれば、大地震などは赤ん坊の拳の痛みほどにも感じないと思い込んでいた。だから、今回の原発事故は津波の浸水で被災した部分と、その浸水が引き金になった構造計算以外の事故ではないかと思っていた。 無知と言われればそれまでだが、今回の原発事故が起こるまでは、周辺に住んでいる人たちの多くも、墜落する可能性のある飛行機より、原発施設は「更に安全」と心のどこかで思っていたのではないだろうか。 ところが、武田氏によれば、原子力発電所の地震基準は甚だ心許なく、震度6の揺れに対しても「壊れる」のは「当然あり得る」リスクだという。 ならば、津波、地震の設計対応さえできればいいのか。否。今回の事故は巨大企業も監督官庁も事が起きなければ動かない体質がすっかり染みついていることを明らかにした。万全を期すという虚言にも、万全を期すシステムの継続という妄想にもだまされてはならない。今この場においてさえ、作業員被曝を防止できず、ミスを連発しているではないか。責任回避に病んでいる権益集団に、重大施設の安全管理システムの構築は無理だということだ。 原発の重大事故は、土地そのものが長期間にわたり使えなくなるばかりか、歴史や文化、コミュニティを破壊するなど、机上の計算を超えた問題を内包する。つまり、単なるコストとリスクの確率計算で建設の可否を判断すべき問題ではない、と思える。 日本人が生き生きしていた時代として昭和が語られ、中でも昭和30年代を挙げる人は多い。その時代は貧しかったし、当時の人々が「今後の50年間で一番幸せな時代が今だ」などとは思いもしなかった。しかし、明日を夢見て懸命に生きた時代ではあったように思う。 当時の不自由さを甘受すべしとは言わなくても、経済的な生活レベルを落とす暮らしを考えるべき時代が始まったのかも知れない。それでも十分生きられるはずだ。次世代に夢をつなぐ効果は今よりずっと豊かにあるはずだ。新たな原発施設の建設は不要である。それは、諸外国との「経済競争」に負けてでもの話である。 [5回]PR
2011/03/22 Category : エッセイ 原発事故に思う(2) 文科省は3月16日、福島原発から20km離れたところで最大330μSv(マイクロシーベルト)の放射線量を記録したと発表したが、この放射線量は単純計算上は、浴び続ければ、2年程度で死に至る量だ。しかし、官房長官談話は「直ちに人体に影響を及ぼす数値ではない」であった。 「直ちに」とはどのくらいの期間をいうのか。国民にとっては、数値がどのような意味を持つのかが気になるところだ。一ヶ月、あるいは、一年間、浴び続けた時に許される累積放射線量はどの程度までを想定すればよいのか。一時被曝と継続被曝と危険の違いは?国は、飛び交う数値の意味を国民に知らせる義務があろう。 政府は原子力安全委員会が作成した「原子力防災指針」に基づき、50mSv(ミリシーベルト)以上の放射を浴びる可能性があるとして「避難」20km圏と10mSv以上の「屋内退避」30km圏を「取りあえず」決めた。 仮に1年間で50mSvを限度とするなら、1時間あたり6μSvの強さの放射線量を受け続ければ達する。 すでに10日が経った。風向の偏りによる被爆の差も考えられる。圏域内の人はこれまでにどのくらい被爆されたかも気になる。 政府は、米空軍無人偵察機「グローバルホーク」が撮影した詳細な原発上空からの情報提供も受けているというが、なぜか情報が出てこない。外国からの緊急援助隊が帰国した理由も無関係とは思えない。避難圏を再設定しなければならない事態が起こりそうな気もする。 だからこそ、これまでの累積数値や数値の持つ意味を説明し、余裕を持ってより遠くへの自主避難を判断できる選択肢も示す必要があるのではないか。 移住を決断している人もすでに出ている。東電も政府も、腹を据え、国民を信頼して、情報の提供と、数値の持つ意味を公表すべきだと思う。 中国漁船衝突映像の公開に、おそらくは官僚が恐れ反対した事態は、映像漏洩後に起きなかったではないか。 不安の増幅を過度に恐れて、避けられるだろうはずの被害までを避難民に課すような愚は避けなければならない。 [3回]
2011/03/19 Category : エッセイ 原発事故に思う 7年前、マグニチュード9.2のスマトラ沖地震が起きた際、現地では最大40数㍍の津波があったという。同種の地震・津波の発生は、日本近海でも想定されたはずだが、原子力発電所への影響を国が真剣に検討した情報は記憶にない。40年も経つ福島原発施設では耐えられないとして、スマトラ級の地震は起こりえないことにしたのかどうかは知らない。今後その経緯も明かされようが、ともかくその「想定したくない」事象が現実に起きた。 今回の原発事故は、地震で停止した原子炉内の燃料棒や使用済み燃料を冷やすための、冷却装置を駆動する外部電源が停電で確保できなくなり、地下の非常用発電機も、津波による浸水で故障し発電できなかったことが原因のようである。 地震・津波の大きさが想定外であることと、施設に起きた事象は別物として考えなければならないのではないかと思う。マグニチュード9を想定外としたことは、過去最大規模として、百歩譲って許されたにしろ、被害を最小限にするための装置の一つが冷却装置でありそれを動かす非常用電源ではなかったのか。浸水で発電できないとは、施設の重要性に比して余りにもお粗末ではないか。震度云々以前の問題と思う。更に、百歩譲って電源が使えなくなった時には、どうやって冷却をするのか、というシミュレーションもなかったのであろうか。発電を停止しても燃料棒が発熱を続けることは敢えて専門家でなくとも広く知られているところである。 施設の重要性に鑑み、あまりに程度の低い、対応の不手際で、原子炉や格納容器が熔融する事故に至りかねない今回の事態の現出に、原発建設の限界を感じている。放射能汚染は今も継続中である。 地震は天災でも事象は人災のそしりを免れない。営業損失を国民の安全より優先した結果ではあるまいかの疑念も残る。「津波に耐え素晴らしい」との経団連会長の発言も、東電社長の津波責任転嫁の会見も、事故の重大さに遠いところにあると感じる。責任の所在が曖昧な日本社会に原発がいかに危険かを示した今回の事件であった。脱原発が急がれる。 [2回]
2011/03/07 Category : エッセイ 土壇場政権 先進国の援助が、圧倒的弱者に不利益を強いる独裁政権の私財の蓄積に向けられ、支援国の特定産業をもっぱら利するものだったことが暴かれている。 そんな中、内乱や貧困に苦しむ見過ごされた人たちの支援に、中村哲さんたち多くの日本人が貢献している。ロボット技術や航空宇宙の世界にも日本人の活躍は光るし、アジアの中ではノーベル賞受賞者も多く出していて、民間レベルではひときわ気を吐く日本。 それに比べて政治だけが日本の国際的信用低下を招いているかのようだ。大波から日本丸を守らねばならないのに、てんでに引っ張り合って動けないうちに、日本丸は、大波に呑まれてしまう。 「一丸となって」と言う議員ばかりなのに一丸になれない民主党にも、現状を招いた政策の原因を他人事のように、政局オンリーの自民党にも、国民はそっぽを向いている。 しかし、へそ曲がり的に見れば、国民の代表になってほしくない議員や議員グループが、こんなによく分かった時代はないのではないか、と思う。 ここ数年の政権を投げ出した人達に比べて、現政権が特段の不始末をしでかしたとは思えない。野党に譲歩しないとか、党内反体制派に配慮が見られないとか、国民目線からは遠い話でもめる間に事態はどんどん泥沼にはまった。したたかな官僚の術策がまぎれ込んでいるかもしれない。 指導力がないのか、あるとしても発揮できないのかは知らない。しかし、いま政権交代しても良い効果が生まれるわけではない。権益にたむろする者には投票率の低いことはおいしいごちそうだ。情報公開が進まず、投票率が低くなるほど社会は病み、不平等は広がる。 それなら、土壇場まで居座って、政界のごたごたをとことん明らかにして、国民目線に遠い議員をもっとあぶり出せばいい。その方が、名古屋市長選のように市民の関心も高まり、政界再編の次のステップに向けて、少なくとも今よりはマシな人選につながるのではないか、とへそ曲がりの私には思えている。 [1回]
2011/02/21 Category : エッセイ 膝送り 「エチケットは心、マナーは形」と言ってしまえばそれまでだが、「心は形を求め、形は心をすすめる」と言われれば、何となく人の有り様も教えられる気がするものだ。 先日、乗り込んだ地下鉄は、座っている人と、立っている人がほぼ同数であった。座席の隣同士はかなりゆったり陣取っているため、少しずつ「膝送り」をすれば、立ち人の多くが座れるのだが、ゲームやメイルに熱中しているのか、多くの若者は携帯画面に見入り、それ以外の人は、立ち人に配慮するでもなく何事もないかのように座っている。 こんな情景にはいつの間にか慣れっこになっていて、こちらも、腹も立たずに立っていたが、目の前の20歳前の男子学生が携帯画面に見入ったまま、隙間を詰めた。するとその横に座っていた同じく携帯を見たままの若い女性が反対側に隙間を詰めた。二人のさらに隣の人は膝送りに同調しなかったので、私の目の前にできた一人分の空間は若干狭く、一瞬どうしようかと思ったが、「ありがとう」と言いながら好意を受け入れた。 別に、こちらを見るでもなく携帯を見つめたままの二人ではあったが、まだ、このような若者がいるというだけで、嬉しいような、ホッとするような気持ちになった。降車駅が近かったので、同じ状況なら、立ったままの方が気楽と好意を無視する大人も多かろう。心の伴わない形だけのマナーより、形にはまだ至らないものの不器用な若者の心を汲みとりたいと思う。肩をすぼめたままの座席は確かに窮屈だったが、若者の好意は十分に私の心を拡げてくれたのだから。 [4回]