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碧濤のひとりごと

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市民参加

 情報公開が言われて久しい。しかし、未だに多くの自治体では、政策検討過程の情報は積極的に市民に流そうとはしない。
 なぜそうなるのか。その一因に我が国の公務員が少ないことが挙げられるのではないか。「うっそー」とでも言われそうだが、実際、我が国の公務員は他の先進国に比べて遙かに少ない。野村総研の平成17年資料によれば、我が国の国民1000人あたりの地方公務員数は約30人。イギリス、フランス、アメリカ、ドイツは、それぞれ49人、43人、64人、47人ほどだ。
 人口1万人のまちを考えれば、200人位は公務員が不足していることになる。他国が政策の遂行、課題の解決にそれだけの人員をあてがって対応し、同じ政策・課題に我が国も対応しているのだとすれば、職場は数に見合った対応策を模索していくに違いないから、市民感覚から遠いものになるのは当然と言える。都市型社会に移行し政策課題が噴出するから尚更だ。
 今から15年ほど前、ストックホルム市の住宅団地を見学する機会があった。建物の向きは、風に雪を運ばせるのに有利なように設計していた。植樹は、どの野鳥を啼かせるか、つまり、野鳥の好む実を付ける木を選定していた。行政による文化創造の営みと感激したものだ。
 十分な公務員がいれば我が国もそうなるか?
 否。
 自治体の成熟度から言っても、いま公務員を増やすことは現実的ではない。つまり、現在の経済情勢、社会環境を考慮すれば、教育も子育ても福祉も防犯も・・・、多くの公共サービスの充実に市民参加が欠かせないということになる。
 痴呆公務員と言う人もいる地方公務員から「自治体職員」へ脱皮するには行政への市民参加が欠かせない。行政の文化化の恩恵は市民に還る。その前提は、求められてから出す「情報公開」ではなく、いつも出ている「情報共有」があるべき姿になる。行政への市民参加の仕組みづくりが求められている。

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むさぼり

 朝比奈宗源は昭和の名僧と言われた臨済宗のお坊さんである。昭和28年7月の禅師の講話「地獄をやぶる」を読み返していたら、少し忙しく生きすぎている仲間たちの顔が浮かんできた。半世紀以上前の講話であるが、今の世相に照らしても、燦然と輝くようだ。お盆の近いこともあり、心を静めるにはいい機会として、紹介させていただくことにした。
・・・(前略)お盆の施餓鬼の対象となるのは、餓鬼であって地獄ではないと思う人もありましょうが、餓鬼も地獄も、その現れる迷いのもとも苦しみも大体同じであります。餓鬼のもとは貪欲ー“むさぼり”であり、地獄のもとは愚痴ー正しい道理の分からない“おろかさ”であります。“むさぼり”がなぜ餓鬼のもととなるかというと、“むさぼり”は欲望や物や地位に対して必要以上に執着する迷いであります。人間は生きてゆくためにある程度の欲望もなくてはならず、物も入用でありますが、それはあくまでお互いの生活に“うるおい”や“ゆとり”をもたせ落ちつきを得たいがためで、物それ自体に価値があるわけではありません。
 ところが人間は物に不自由をして苦しみますと、その反動として物がなくてはいけない、物さえあればという考えを起こし、物を得るために手段をえらばないようになり、ついには物を得るためには、自分の心の落ちつきをも失うまでになるのであります。
 そうなると本と末とあべこべになり、物があったらゆとりのある生活をし、他人をもよろこばせ、社会にも寄与してこそ楽しいのに、物がたまればたまるほど汚なくなり、自分すら窮屈に、他人にも人情を欠き、社会にも義理を欠くというバカげた結果となり、はては親子夫婦の間ですら血で血を洗う争いを引きおこすのであります。
 これは物が“たくさん”たまった場合でありますが、反対に物が乏しくて困っているときでも、この迷いのもたらす苦痛はおなじであります。この頃よく物の乏しいために年寄りと若い人との間がうまくゆかない例を見ますが、これ等もただ物が足らないだけでなく、その人たちの心の迷いが自分の欲望や感情の処理をうまくつけさせないからであります。その迷いが“むさぼり”であります。“むさぼり”の心はひとり物の上にはたらくばかりでなく、身びいきの考えとなってものごとを自分の都合のよいようにばかり考え、知らず知らずのうちに自分だけが正しいと信じこみ、これにしたがわない人はみな不正不義な輩だとさえ考えるようになって、はたの人がその独りよがりの意見に賛成しないと心からこれを憎み、どうしたらよいかともだえ苦しむのであります。自分が逆さになっているのを知らずに、他の人が逆さになっていると思うのであります。
 こうしたことは、年寄りと若い人との争いの場合などに最も多いのであります。もともと親と子であったり、お祖父さんお祖母さんと孫さんであったりしたら、そんなに深刻に憎み合うはずはない。それが他人以上に憎み合ったりするのは、自分が正しいのに分かってくれない、どうかして分からせねばならないという、愛情が裏付けとなった悲しみや憤りがさせるのであります。そうなると物のことなどどうでもよく、これが分かってもらえねば死ぬにも死ねないと、生きながら地獄の苦しみをするのであります。明けても暮れてもこの苦しみにさいなまれる、これが無間地獄であります。ここへおちこむとなかなか出られません。
 こうして見ると、餓鬼と地獄とは別なものではありません。その根本の迷いを退治すればいっしょに片づくのであります。その方法が前にあげた「地獄をやぶる偈」の教えであります(後略)・・・

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自己保身

 相撲界が大揺れである。昔から暴力団との結びつきがあったことが、関係者の証言で国民の知るところとなった。外部委員会に責任の処し方を決めてもらわねばならぬほど、相撲協会自身に自浄能力のないこともよく分かった。
 そして、琴光喜には解雇以上の処分という勧告だ。もともと自己申告すれば厳重注意処分としていたのだから、委員会どおりの処分を理事会が追認するなら、申告者に対する約束違反だ。朝青龍等の一連の不祥事への対応に続き、またも理事会は、トカゲの尻尾切りで自己保身に走るのかと腹立たしくさえなってくる。
 現役力士の処分は幕内だけで7人、幕内力士の2割ほどの処分で名古屋場所の開催は何とかなると踏んだのだろうが、出場力士が足りなくなるほどに処分者勧告が出たら、どうしたのだろうか。
 暗闇との関係を清算できないまま、今に至った結果責任は、自分の部屋に処分者がいようがいまいが、暗闇を知る立場にあった理事全員がとるべきではないのか。「何とか現役力士は許してほしい」と両手を付いて誠心誠意謝罪し、理事全員が辞職を申し出、理事長は琴光喜に代わって相撲界を去る覚悟をしたとき、初めて国民から「そこまでするなら」との応援の声も出よう。それから、新しい理事を選び直し再生すればいい。
 本物の武道・芸道を守り伝えてきた人たちは、暮らしが貧しくとも、名誉に恵まれなくとも、いつの時代も命がけで稽古に精進しているのだ。
 相撲道、日本文化の伝統を守ると言うのなら、そのくらいのけじめ、トップの覚悟が必要なのだと思う。

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行政コスト

 集中豪雨のニュースが流れ始めると心配になるのが、ダム、道路、河川等の土木施設を管理する道や県等、いわゆる広域自治体の対応だ。住民もインターネットの発達で降雨や水位情報等を瞬時に知ることができる時代だ。管理機器のIT化により、事態の発生と対応の時間差も衆目知るところとなるから、「管理責任」が関係者に重くのしかかる。
 一たび事が起これば町村等の基礎自治体は全課総掛かりの体勢で対応することになっているが、広域自治体ではどうか。災害は毎日起こる事態ではないから、空港や大型ダム等を除き、そのためだけに「管理」事務所を置くことはまずなく、日常施設管理している「建設」事務所の職員など関係者のみで、非常時も対応しているのが実態だろう。
 公共工事の減少で建設事務所職員が削減となっても、管理業務が減るわけではないから、土砂崩れなどの具体の事態が起きだすと、被害情報の収集、連絡、対応の指示、現地と本部の関係者間の調整が加速度的に増えていく。最近は「観測史上初めて」の異常気象が「頻発」している。対応が遅れると人命に関わるが、「想定以上の災害でした」とされかねない事態も「想定」されよう。そんな災害が、盆で職員不在者が多い時に起きたら、土地勘もない異動直後に起きたら、管理職が総入替に近い人事だったら、と考えるとぞっとする。
 しかし「広域自治体関係機関全体」で非常時対応すると考えれば、別の考えができるのではないか。災害発生時に、休日だからとゲームで遊んでいるような他課の職員を組み込まない手はないということだ。北海道も支庁から振興局とか総合振興局とか看板をすげ替えただけと言われないように、まだ、起きていない「大変な事態」になる前に考えるべき課題と思う。「大変な事態」下では帰省先での招集を含め、職域を超えた人手の融通があっていい。行政コストの削減とは、そういう面もひっくるめて考えるということではないのかと思う。

 

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最小不幸の社会

 菅新総理は、総理就任直後の記者会見で「政治の役割というのは、国民が不幸になる要素、あるいは、世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか最小不幸の社会をつくることにある、と考えています」と言った。「最小不幸の社会をつくる」という言葉が異質に響いた。
 「最低限の生活を保障する」というような表現に耳慣れていたからだ。そして、両者は同じ言葉のようだが、意味はかなり違うように思った。
 最低限の生活を保障するといえば、『最低限の生活=経済保障』に置き換えられて行政に反映し、庶民感覚とはズレた政治、心を置き去りにした政治になりかねない。
 実は、「地元業者の育成」という言葉にも同様の響きがある。地元業者には優良な業者もいれば不良な業者もいる。不良な業者を排除するシステムさえしっかり作れば、優良な業者は育成されなくても、自ら育つのだから、「不良業者の排除」とだけ言えばいい。それを、時代錯誤の澱(おり)を温存させたままのシステムは、「地元業者の育成」という耳障りのよい言葉にすり替えて、いつの間にか我々を馴らしていく。
 しかし、バブルがはじけ、格差社会が蔓延し、社会や一般大衆を誘導していた耳障りのよい言葉に市民は疑いの目を向けだした。テレビ取材を断り切れなくなった高級官僚の、贅を尽くした公宅等が放映されると、システムの一端とはいえ、市民生活の裏側に巣くってきた澱の存在は確信になった。
 都市型社会の政策課題は横断的、複合的、重層的である。それらを解決するには、人間関係修復への誠意や意欲、社会の不正義に立ち向かう勇気や覚悟などを必要とする。
 もちろん政権党だけの問題ではない。誠意や覚悟は他の国会議員にも地方の議会にも、首長にも、自治体職員にも必要だ。それを可能にするには、市民の関心と、市民に関心を持たせ続けるための、絶えざる「情報の公開」以外はあり得ないように思う。
 『最小不幸の社会』という言葉には、権勢に群がる者たちには苦手な、「市民の目線」を突きつけ続ける力があってほしいものだ。
 

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