- 2024/11/28
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生活に緊張感を持たせるため、月に一度ほどブログを更新しています。 最近は腹立たしくも悲しい出来事が多すぎ、 そんな思いからのブログです。
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集中豪雨のニュースが流れ始めると心配になるのが、ダム、道路、河川等の土木施設を管理する道や県等、いわゆる広域自治体の対応だ。住民もインターネットの発達で降雨や水位情報等を瞬時に知ることができる時代だ。管理機器のIT化により、事態の発生と対応の時間差も衆目知るところとなるから、「管理責任」が関係者に重くのしかかる。
一たび事が起これば町村等の基礎自治体は全課総掛かりの体勢で対応することになっているが、広域自治体ではどうか。災害は毎日起こる事態ではないから、空港や大型ダム等を除き、そのためだけに「管理」事務所を置くことはまずなく、日常施設管理している「建設」事務所の職員など関係者のみで、非常時も対応しているのが実態だろう。
公共工事の減少で建設事務所職員が削減となっても、管理業務が減るわけではないから、土砂崩れなどの具体の事態が起きだすと、被害情報の収集、連絡、対応の指示、現地と本部の関係者間の調整が加速度的に増えていく。最近は「観測史上初めて」の異常気象が「頻発」している。対応が遅れると人命に関わるが、「想定以上の災害でした」とされかねない事態も「想定」されよう。そんな災害が、盆で職員不在者が多い時に起きたら、土地勘もない異動直後に起きたら、管理職が総入替に近い人事だったら、と考えるとぞっとする。
しかし「広域自治体関係機関全体」で非常時対応すると考えれば、別の考えができるのではないか。災害発生時に、休日だからとゲームで遊んでいるような他課の職員を組み込まない手はないということだ。北海道も支庁から振興局とか総合振興局とか看板をすげ替えただけと言われないように、まだ、起きていない「大変な事態」になる前に考えるべき課題と思う。「大変な事態」下では帰省先での招集を含め、職域を超えた人手の融通があっていい。行政コストの削減とは、そういう面もひっくるめて考えるということではないのかと思う。
菅新総理は、総理就任直後の記者会見で「政治の役割というのは、国民が不幸になる要素、あるいは、世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか最小不幸の社会をつくることにある、と考えています」と言った。「最小不幸の社会をつくる」という言葉が異質に響いた。
「最低限の生活を保障する」というような表現に耳慣れていたからだ。そして、両者は同じ言葉のようだが、意味はかなり違うように思った。
最低限の生活を保障するといえば、『最低限の生活=経済保障』に置き換えられて行政に反映し、庶民感覚とはズレた政治、心を置き去りにした政治になりかねない。
実は、「地元業者の育成」という言葉にも同様の響きがある。地元業者には優良な業者もいれば不良な業者もいる。不良な業者を排除するシステムさえしっかり作れば、優良な業者は“育成”されなくても、自ら育つのだから、「不良業者の排除」とだけ言えばいい。それを、時代錯誤の澱(おり)を温存させたままのシステムは、「地元業者の育成」という耳障りのよい言葉にすり替えて、いつの間にか我々を馴らしていく。
しかし、バブルがはじけ、格差社会が蔓延し、社会や一般大衆を誘導していた耳障りのよい言葉に市民は疑いの目を向けだした。テレビ取材を断り切れなくなった高級官僚の、贅を尽くした公宅等が放映されると、システムの一端とはいえ、市民生活の裏側に巣くってきた澱の存在は確信になった。
都市型社会の政策課題は横断的、複合的、重層的である。それらを解決するには、人間関係修復への誠意や意欲、社会の不正義に立ち向かう勇気や覚悟などを必要とする。
もちろん政権党だけの問題ではない。誠意や覚悟は他の国会議員にも地方の議会にも、首長にも、自治体職員にも必要だ。それを可能にするには、市民の関心と、市民に関心を持たせ続けるための、絶えざる「情報の公開」以外はあり得ないように思う。
『最小不幸の社会』という言葉には、権勢に群がる者たちには苦手な、「市民の目線」を突きつけ続ける力があってほしいものだ。