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碧濤のひとりごと

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行動する良心

 安定でない廃棄物が入るから問題となる「安定型処分場」。日本各地で地下水汚染などを引き起こし、日弁連では2年前、今後は新規に許可されないよう国に求めた。
 道知事許可の安定型処分場は道内に217カ所あるとのことだが、地元首長が反対意見書を出した事例は極めて少ないという。
 夕張の財政再生計画説明会では、直接関係のない処分場に住民の関心が集まり、口々に反対意見が出された。それまで建設に賛成していた藤倉市長も勢いに抗しきれず、道に対し反対の意を伝えた。11月4日が最終と言われていた廃棄物処理施設専門委員会は12月11日に継続審議となったようだが、まずは市民の良識と市長の英断に拍手をおくりたい。
 処分場の傍らを流れるクルキ川は夕張川に合流し、下流の由仁、栗山、長沼町などの飲料水、農業用水に利用されている。「夕張だけの問題ではない。下流の隣人に迷惑をかけられない」と、所属や支持政党を違えた人たちも集まりだしてもいる。当初はメロン農家から出る廃ビニール材の処分のためという表向きの説明が為されていたが、それは持ち込まれる廃棄物の一部でしかない。夕張の歴史始まって以来という市民運動の広がりとともにメロン農家からも反対者が出だし、署名活動も始まった。
 故・金大中氏は亡くなる2ヶ月前の6月11日、「6.15南北共同宣言記念式」の特別講演で、光州事件などの犠牲者の上に今の韓国があることを“行動する良心”として訴えた。「・・・人は誰であれ心の中に良心があります。しかしそれが正しいと知りながら行動するのは怖いから、煩わしいから、損をするからと、自分の良心を押さえつけたり逃げてしまうこともあります。そのような国民の態度によって、正義感から立ち上がった人々は罪もなく死んでいき、数々の苦難に陥っていきます。にもかかわらず私たちは、義によって起ちあがって闘った人々が達成した民主主義を享受しているのです。これは果たして、私たちの良心にふさわしいことでしょうか。・・・」(世界11月号)
 夕張の狭い地域社会の閉鎖的なしがらみに風穴を開けたのは、財政の破綻であり、夕張再生市民会議のメンバーであり、心あるジャーナリストや外部応援部隊としての我々のような存在があったことは確かだろうと思う。市民が声を上げ出せば、まちづくりの一歩は踏み出したことになる。利権に群がる思惑は“行動する良心”の前に無力であろう。私はそう信じたい。

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年代観

 何の話が発端だったのか定かでないが、来年60歳になる仲間の一人が「実は、私の祖父は、元治元年生まれなんです」と言った。元治元年とは1864年、明治になる4年前のことだ。びっくりしたが、彼の年齢を差し引くとそれほど驚くことでもないか、と思えてきた。今に生きていれば145歳の祖父ということになるが、祖父43歳の時に生まれた父が、43歳の時につくった子が彼だと考えれば何でもないことだ。逆に言えば、60歳という年齢は相当な時間の重みがあるということだ。
 先日、1949年完成という小津安二郎監督作品「晩春」を見た。「結婚したくない」と言う娘役の原節子を諭す、父親役の笠智衆の台詞の中に、「お父さんはもう56だ、人生は終わりに近いんだよ...」というのがあった。
 60年前は、『56歳は人生の終わりに近かったのか』と、ノー天気な自分の年代観を重ねた。
 天下り先の確保に必死になり、楽な生活を確保した矢先の定年後まもなくに、ぽつぽつと知人がこの世を去る。少し長らえても、第2の人生を終え毎日日曜日になった途端、生き甲斐を見失う先輩諸氏もいよう。年代というものの客観的事実と、主観的感覚に大きな開きがあるのは、人生を安易に生きてきた証左なのかもしれない。
 急な入院で、先行きが心細くなったのか、義父は見舞いに来た知人に抱きついて泣くようになった。人生80年時代とはいうが、60年前に生きた人たちの年代観で残りの人生を生きていきたいものだと思った。

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夕張フォーラムを終えて

 録画しておいた映画「ノーマ・レイ」を見た。紡績工場に勤める女工ノーマが、全米繊維組合から派遣された活動家ルーベンに感化され、労働運動に関わりながら、次第に自立した女性へと成長を遂げ、同時にノーマを通じて労働者たちも目覚めていく、という作品だ。
 経営者からの搾取に無関心で、団結が反政府活動のように思いこんでいる紡績工場の労働者が、何となく旧来の夕張市民に重なる。
 しかし、今、政治的関心もなく、行政にも受け身で、ただの住民の一人として暮らしてきた人たちが、絞り出すように声を上げ始めている。
 夕張に関わった記録を残そうとの仲間の提案を受けた直後に、ダム計画を中止させた徳島県木頭村の例を取り上げた報道があった。
 2000年11月、建設省は、徳島県那賀川上流の木頭村(今は那賀町)、に計画されていた細川内(ほそごうち)ダム計画の中止を発表した。高度成長期、林業で栄えた木頭村も、後継者問題や輸入材に押され疲弊し、人口は2千人足らずとなる。ダムを作れば国から巨額の金が入る。建設計画から30年、ダムをめぐる利害の対立は、親子、親族を巻き込み、信頼の厚かった助役が自ら命を絶つという悲劇も生んだ。
 しかし村は、自然豊かな郷土を守るため、ダムに頼らない“まちづくり”を選んだ。村長の強力なリーダーシップとダム建設反対住民の結束で国は建設計画を撤回した。村は山の湧き水や、特産の柚子を活用した多様な地域特産品をつくり、全国に販路を広げていく。96年の設立当初、資金不足や宣伝不足、販売力不足で抱えた3億円の負債と約4千万円の累積赤字、社員を10人に半減しても、赤字が減らず、元本保証のない社債まで募集したという第3セクター「きとうむら」は、村長に協力する理解者によって、困難を乗り越える。2002年には地域住民に株のほとんどを譲渡し、「地域民セクター」となり、株の85%を地域住民が保有し、以来黒字が続く。「千匹の羊より一頭のライオンが必要だった」との木頭村関係者のメッセージは、夕張のリーダーの条件に重なって聞こえた。
 勝手な想像である・・・。いま、夕張市役所の職員の20%が外部からの応援部隊である。このまま手をこまねいていれば、夕張という自治体は消えて北海道の直轄地となるか、人口減による負担増の平準化のため償還期間が更に延びて自治体行政は崩壊に近い打撃を受けるだろう。賃金の3割カットが続けば新職員応募は当分期待できないから、道からの派遣は更に増えるし、償還を終えたころは、生え抜きの今の若手職員さえ大方定年、またはそれに近い年齢となっているだろう。債務償還後に急に増える新人職員だけでは行政は機能しないから、結局北海道は応援派遣を継続しなければならず、道が負担する人件費用は莫大なものとなるだろう。その人件費は本来道行政のためのものだから、北海道の損失は計算上は割り増して計算しなければならない。これは、自治体が残る前提での話だが、それでも結局自治体が消滅するとなれば、公共財産の処分、管理、保全に更なる道の負担が増えていくだろう・・・。
 人口流出に伴う経済損失、人心の停滞による諸々の不経済効果などを考え合わせると、結局は、今から、北海道も責任を認め、国と掛け合い、応分の負担を求め、時間を先取りして、夕張を生き返えさせる方が利を得るのではないのかと思えてくる。
 今から30年ほど前、湯布院など当時日本の先駆自治体の成功要因を、(財)電力中央研究所で分析したことがあった。強力なリーダーと、数は少なくても取り巻き連中がいることが共通要因と結論されていた。
 湯布院町の温泉街や日田市の梅、葛巻町の新エネ導入や上勝町の葉っぱ産業のように、リーダーや取り巻き連中が、まちづくりに向けて自ら芽生えるのを待つ訳にはいかないほど、現在の日本は、あまりに多くの自治体が悲鳴を上げている。このままではそれこそ日本が沈没すると思えるほどだ。そこに我々のようなNPOの役割が出てくる。
 今、NPOは日本中で増えているが、正直どれだけが機能しているのかとも思う。志は純粋でも活動費の不足や理想のぶつかり合い、運営手法の認識差で停滞するNPOも多かろう。NPOを支える仕組みも少ない。特に、我々のような、行政を支援するNPO(新しい形態のシンクタンクといえなくもないが)は少ないだけでなく、存在意義を理解されてもいないといって良い。
 第二の夕張は日本中に散らばる。夕張にノーマ・レイは現れているのか、まだ眠っているのか、私には、まだよく分からない。しかし、我々は、組合活動家ルーベンの役回りはしたのではないかと密かに思っている。

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政権交代

 ソビエト連邦が崩壊して間もない1992年にサハリンを訪ねたことがあった。現地へのおみやげには100円ライターやボールペンがまだ喜ばれた時代だった。煤けた町なかの公衆電話はコードが引きちぎられ、煙草を吸う10歳前後の子供たちが街中に目立っていた。通訳から「国がしっかりしないのでこうなった」と聞かされ、教育やしつけに言及しないことに、日露の文化の違いを感じたものだ。しかし、当時の日本が今の状況なら「日本も同じようなものですよ」と言っていただろう、と思う。結局、高度成長の行き着いた先は、金が意志を持ったような新自由主義社会という、中身が空洞の巨像(虚像)社会だったのではないか。生産に非効率な人間は不良部品としてはじかれ、はじかれたものがニートやフリーターとなって映る。
 人の価値は生産効率の尺度では測られない。多様なものを受け入れている自然界。ヒトも多様であるからこそ文化が育まれる。国立民族博物館の元館長梅棹忠夫氏は「文明は腹の足しになるもの、文化は心の足しになるもの」と言った。「経済が豊かになれば、心も豊かになるのではないですか」。サハリンを訪ねた時、私たちの訪問理由を尋ねた残留日本人の言葉が思い出される。サブプライムローンに端を発した不況突入は、権益に連なる偽善者をあぶり出す副次効果ももたらした。経済繁栄の陰で失ったものをどうやって取り戻すのか。政権交代が日本人の英知の選択であることを願っている。

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集談会

 財政再建団体になって3年目の夕張市。人口はこの2年間で1800人減少し、1万1500人、高齢化率は44%となった。負債は未だ300億円を超え、今後も16年間返済は続くので、責任のない世代にも振り向けられる。若者の多くは働く場を他所に求めるから、このままでは、負債を返すどころか自治体が潰れることもあり得る。
 「炭坑の街から観光の街」への転換は、国のリゾート政策の先駆けとなり、「まちづくり優良地方公共団体」として自治大臣表彰まで受けた。エネルギー政策の国策転換を観光に振り向けるよう煽ったのは国ではないかと言うこともできよう。予算資金確保のための不適切な財政手法は北海道の“黙認”の中で更に赤字を膨らませ、結果的に巨額の負債が市民に残された。「指導権限はない」とは、破綻後の北海道の弁だが、何もしなければこうなることは分かっていたことだった。夕張市がハコモノ投資に突っ走るのを“実際に”止めることができたのは、情報を知り得た国や北海道ではなかったのか。
 財政破綻は、果たして夕張市だけの責務なのだろうか。夕張で起きた問題の根本には、過疎に悩まされる地域の共通の課題があるのではないか。夕張が再生することは、他の旧産炭地域や多くの過疎地域に、大きなヒントと勇気を与えることになるのではないのか。
 借金返済だけの「再生計画」ではなく、“真の再生”に向けたボートの行き先を誰が示すのか。オールを握りしめた市民に関わりだして一年。同じ思いの仲間たちと一緒に、行き先を見つけるための「集談会」を企画した。全道の自治体職員や研究者そして地元の市民とが問題点について認識を深め、各地の取り組み事例などの情報交換を織り交ぜ、まちづくりのあり方、議会のあり方、市民の責務について話し合い、将来への提案をする場だ。寸劇のシナリオも用意した。市民が行政内部に入り込み、市民による自治体運営を真剣に考える時代だ。シナリオに盛り込んだそういう市民室設置が現実のものとなることを願っている。

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