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碧濤のひとりごと

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さくら

a2466acf.jpeg 静内の二十間道路の桜並木は有名ですが、有名になりすぎて“見るだけ”になってしまいました。“呑みながら”見たい地元人は葉桜になってからという、何とも物足りないものです。
 浦河町西舎の桜はその静内からも、盛りの花見に来るくらいですから、穴場(写真)といえるでしょう。人も車もほどほど、二線級歌手の歌謡ショーなどもあって宴は和気あいあいに、一日がゆっくりと流れていきます。
 桜と言えば、25年ほど前の進藤一馬福岡市長のエピソードは有名です。道路拡張のため、桜並木が切り払われることを惜しんだ住民が桜木に和歌を掲げたという記事が新聞に載るや、多くの人たちがその後に続き、ついに工事が変更されて桜は残されました。その歌の中に、「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻」。香瑞麻は「かずま」、市長の雅号でもあったというもの。
 規制緩和のしわ寄せか、新自由主義の末路かは知れないけれど、弱いものばかりにしわ寄せがくるようなギスギスした世情故に、なおさら今、大和心が必要な気がします。もてはやされると本質から離れがちになるもの、有名にはならないに限るということですかね。

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ちょっと安心

老舗旅館の仲居として、有名私立女子大生二人が就業体験する番組があった。
「要領がいいのでどんなアルバイトも軽くこなしてきた」と、ノリで話していた二人は、客の出迎え、配膳、ふすまの開け閉めなどを教えられるが、客が入りだすと、仲居さんたちの時間と戦うような迫力に圧倒され、教えられた振る舞いもできず、客への無礼な対応の苦情を女将を通じて聞かされるうち、次第に意気消沈していく。
 そして、千枚を超える皿を洗う老女に、「かわいそう。もっと時間を大切にすればいいのに」、「あのお婆ちゃんは何のために、あんなきつい仕事を毎日やっているのか不思議」との疑問も解けないうちに、2泊3日の就業体験は終わった。
 女子大生に代わって老女に質問した番組スタッフが、回答を伝えた瞬間、いつもの風貌に戻っていた彼女たちの様子は一変した。
 「お孫さんに小遣いをあげるためだって言っていたよ」
言葉を失った彼女たちの目に涙がこみ上げる。今時の女子大生は宇宙人に見えていたが、彼女たちの感動が世代を超えた共通項として残っていることにちょっと安心したのであった。

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やりきれない思い

 受け入れを拒否されて、病院をたらい回しにされた妊婦が、脳内出血のため亡くなった。東京都内でのことだ。運び込まれた最初の病院は、総合周産期母子医療センターを標榜していた。当直が一人の場合は妊婦を受け入れないという原則があっため拒否したそうだが、かかりつけの産科医は異常な頭痛を直接救急医に伝えたという。
 伝えられた5年目の研修医は、脳出血の疑いを持たず、下痢や嘔吐がひどいと説明されたので、感染症などではないかと判断したという。その後、研修医から電話を受けた担当産科部長も、他の医療機関に回した研修医の判断を了承したという。
 かかりつけの「産科医」が訴えた「異常な頭痛」にも関わらず、「研修医」が頭痛を「重要視しなかった」のにも疑念が残るが、もっとひどいと思ったのは、産科部長の答弁である。
「結果からすれば、もっと頭痛を重大に取り扱えばよかった。ただ、仮に処置が1時間早くても、結果はあまり変わらなかった」と釈明したという。
 処置していて、患者を助けていたら何と言うのか。「仮に処置が一時間遅かったら危なかった」と言わないか。あまりにも、遺族の心情を逆なでする言葉に聞こえる。
 研修医は担当部長の了解をとったから責任はないと言わんばかりだし、担当の産科部長の言も自己保身にしか思えない。
 「私の判断が甘かった。勉強不足でした」「このような事故を2度と起こさぬよう徹底的に内部体制を見直します」とさえも言えないのか。
 医者不足への対策はそっち。少子高齢化対策はあっち。一般市民には、「同じ穴のムジナ」に映る。やりきれない怒りが残る。

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ダイジョウブです

 ワカモノ言葉なのかな、と思った。
 23歳になる次男の友人が、盆の里帰りの途上に我が家に一泊した。朝飯時に、妻が「お代わりは?」と聞いた。「ダイジョウブです」と彼は答えた。「あら、お代わりしなくてダイジョウブなの」と妻は納得している。
 ダイジョウブとはどういう意味だ?「食べられるけれど、食べなくても我慢します」の意味なのか、「もう一度すすめてくれるならお代わりしたい」と言う意味なのか。彼のことをあまり知っているわけでもないし、目を見て話さない性格も気になって、聞くのは止めた。
 「今のワカモノは、はっきり言わないのが特徴。彼らなりに気遣っているの。『もう結構です』では相手に失礼だと思っているからよ」と妻は言った。それなら、「もうお腹いっぱいいただきました」でいいではないか、本当はもっと食べたかったのではないか。妻の説明に今ひとつ納得できずにいたら、数日後、別の友人が泊まりに来て、同じく、「ダイジョウブです」とお代わりを断った。
 友人が帰ったあとに、妻が笑いながら、「お父さんが意味を知りたがっているよ」と次男に聞いた。「『お気遣いなく』という程度の意味で、お父さんは深読みし過ぎだ」とたしなめられた。
 ダイジョウブ=婉曲に断る言葉。いずれ辞書にそう記されるに違いないと思いながら、若者の価値観から外れた存在となった事実に一抹の寂しさを感じるのだった。

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財政破綻都市夕張にて

赤木かん子さん 「子どもの本フェスティバルinゆうばり」に参加した。文学にはあまり興味を持たずに生きてきたが、多少、夕張に関わることになったこともあり、別次元の市民反応を感じたくて出向いた。市内に入ったのが昼飯時直前だったので、「藤の家」という食堂で、有名だというカレーうどんを注文した。後頭部から噴き出す汗にハンケチを当て、「カレーもうどんも夕張特産のものではないけれど、旨ければ、人はこんなにも来るものなんだなあ」と思いつつ、急に混んできた店の客の顔を見回した。
 今回のイベントは、財政破綻後、図書館が閉鎖されたのを機に子ども文化を守ろうと立ちあがったグループ、“かぜちゃる”の主催である。
 講師の一人、赤木かん子さんが会場に年齢を問い、挙手させた。ざっと目測すると20代20人、30代40人、40代80人、50代100人、60代70人、70代10人くらいの比率で、圧倒的に女性層だ。参加者の7割が読み聞かせを実際にしている人たちで、帯広方面からの参加もあり驚いた。因みに、学校の教師は数名しかいない。まちづくりに教師が少ないのは、昔からどこも同じようだ。 
 「直接参加型市民イベントではなく、こういう外部参加型支援も非常に大切だ」と感じながら、会場の一体感の中で講演を聴いた。
 デイヴィッド・シャノンの「ストライプ」の紹介があった。本屋でめくり見したことはあるけれど、買いたいと思うほどの感性を持ち合わせない僕のような大人が、今の子どもの心を知るにはいい本のようだ。
 ローレンス・デイビッドの、「ぼく、ムシになっちゃった」は1970年以降、“親が子どもに初めて謝った児童書”だと言う。
 大人世界の変化が子どもたちに鋭く見抜かれた結果が、児童書の売れ筋にまで影響していくという分析がおもしろかった。
 ファンタジー文学は今年で終わって、ハリーポッターを第一巻から読もうという子どもは、既にもうほとんどいないともいう。
 最近聞いた言葉かな、と思っていた、「ヤングアダルト文学」も終わりになったとかで、今は、自然科学本が“旬”なのだそうだ。
 「粘菌」は一ヶ月で増刷したとか、ジョン・グールドの「世界の鳥」は小学校一年生が借りていくとか、“変温動物もの”ともなれば小学校4年生まではお宝ものらしい。
 昔の自分なら感動したろうなと
、いつの間にか年老いた自分が聞いているのに気づいた。
 もう一人の講師、落合恵子さんは、「スプーン一杯の幸せ」を書くずっと以前に、ディスクジョッキーの彼女にあこがれていた少年時代があった。講演も文章も上手だけれど、肩の力が抜けないまま、年を重ねて見えたのが少し残念だった。怒りを伝えたければ肩の力を抜かねばならない。年追うごとにそう思う。
 イベントの余韻を感じながら、帰りがけに、“夕張鹿鳴館”に立ち寄った。閉館時に近かったので、管理員は無料で見学を許可してくれた。
 当時の北炭の幹部なのだろうか、“きれいどころ”とダンスを踊っている写真が、その大広間の壁に掛けられていた。高価であろう絵画、江戸時代の屏風、大皿等も置かれていた。リーフレットには、夕張市はこの建物を北炭から“購入した”とあったが、夕張市に“購入させた”のではないかと、いつの間にか読み替えながら見学していた。
 財政が破綻した夕張市。 この町に暮らす被害者とは誰なのか。自分はこの夕張市で何を、誰のためにしようとしているのか、札幌への夕暮れの道を辿りながら、もう少し問い直してみる必要があると感じていた。
 写真に残る過去の上層階級に、今に至った責任を誰が、どう取るべきなのか、聞いてみたい気がしたからである。

 

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