2010/07/05 Category : エッセイ むさぼり 朝比奈宗源は昭和の名僧と言われた臨済宗のお坊さんである。昭和28年7月の禅師の講話「地獄をやぶる」を読み返していたら、少し忙しく生きすぎている仲間たちの顔が浮かんできた。半世紀以上前の講話であるが、今の世相に照らしても、燦然と輝くようだ。お盆の近いこともあり、心を静めるにはいい機会として、紹介させていただくことにした。 ・・・(前略)お盆の施餓鬼の対象となるのは、餓鬼であって地獄ではないと思う人もありましょうが、餓鬼も地獄も、その現れる迷いのもとも苦しみも大体同じであります。餓鬼のもとは貪欲ー“むさぼり”であり、地獄のもとは愚痴ー正しい道理の分からない“おろかさ”であります。“むさぼり”がなぜ餓鬼のもととなるかというと、“むさぼり”は欲望や物や地位に対して必要以上に執着する迷いであります。人間は生きてゆくためにある程度の欲望もなくてはならず、物も入用でありますが、それはあくまでお互いの生活に“うるおい”や“ゆとり”をもたせ落ちつきを得たいがためで、物それ自体に価値があるわけではありません。 ところが人間は物に不自由をして苦しみますと、その反動として物がなくてはいけない、物さえあればという考えを起こし、物を得るために手段をえらばないようになり、ついには物を得るためには、自分の心の落ちつきをも失うまでになるのであります。 そうなると本と末とあべこべになり、物があったらゆとりのある生活をし、他人をもよろこばせ、社会にも寄与してこそ楽しいのに、物がたまればたまるほど汚なくなり、自分すら窮屈に、他人にも人情を欠き、社会にも義理を欠くというバカげた結果となり、はては親子夫婦の間ですら血で血を洗う争いを引きおこすのであります。 これは物が“たくさん”たまった場合でありますが、反対に物が乏しくて困っているときでも、この迷いのもたらす苦痛はおなじであります。この頃よく物の乏しいために年寄りと若い人との間がうまくゆかない例を見ますが、これ等もただ物が足らないだけでなく、その人たちの心の迷いが自分の欲望や感情の処理をうまくつけさせないからであります。その迷いが“むさぼり”であります。“むさぼり”の心はひとり物の上にはたらくばかりでなく、身びいきの考えとなってものごとを自分の都合のよいようにばかり考え、知らず知らずのうちに自分だけが正しいと信じこみ、これにしたがわない人はみな不正不義な輩だとさえ考えるようになって、はたの人がその独りよがりの意見に賛成しないと心からこれを憎み、どうしたらよいかともだえ苦しむのであります。自分が逆さになっているのを知らずに、他の人が逆さになっていると思うのであります。 こうしたことは、年寄りと若い人との争いの場合などに最も多いのであります。もともと親と子であったり、お祖父さんお祖母さんと孫さんであったりしたら、そんなに深刻に憎み合うはずはない。それが他人以上に憎み合ったりするのは、自分が正しいのに分かってくれない、どうかして分からせねばならないという、愛情が裏付けとなった悲しみや憤りがさせるのであります。そうなると物のことなどどうでもよく、これが分かってもらえねば死ぬにも死ねないと、生きながら地獄の苦しみをするのであります。明けても暮れてもこの苦しみにさいなまれる、これが無間地獄であります。ここへおちこむとなかなか出られません。 こうして見ると、餓鬼と地獄とは別なものではありません。その根本の迷いを退治すればいっしょに片づくのであります。その方法が前にあげた「地獄をやぶる偈」の教えであります(後略)・・・ [1回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword