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碧濤のひとりごと

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最小不幸の社会

 菅新総理は、総理就任直後の記者会見で「政治の役割というのは、国民が不幸になる要素、あるいは、世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか最小不幸の社会をつくることにある、と考えています」と言った。「最小不幸の社会をつくる」という言葉が異質に響いた。
 「最低限の生活を保障する」というような表現に耳慣れていたからだ。そして、両者は同じ言葉のようだが、意味はかなり違うように思った。
 最低限の生活を保障するといえば、『最低限の生活=経済保障』に置き換えられて行政に反映し、庶民感覚とはズレた政治、心を置き去りにした政治になりかねない。
 実は、「地元業者の育成」という言葉にも同様の響きがある。地元業者には優良な業者もいれば不良な業者もいる。不良な業者を排除するシステムさえしっかり作れば、優良な業者は育成されなくても、自ら育つのだから、「不良業者の排除」とだけ言えばいい。それを、時代錯誤の澱(おり)を温存させたままのシステムは、「地元業者の育成」という耳障りのよい言葉にすり替えて、いつの間にか我々を馴らしていく。
 しかし、バブルがはじけ、格差社会が蔓延し、社会や一般大衆を誘導していた耳障りのよい言葉に市民は疑いの目を向けだした。テレビ取材を断り切れなくなった高級官僚の、贅を尽くした公宅等が放映されると、システムの一端とはいえ、市民生活の裏側に巣くってきた澱の存在は確信になった。
 都市型社会の政策課題は横断的、複合的、重層的である。それらを解決するには、人間関係修復への誠意や意欲、社会の不正義に立ち向かう勇気や覚悟などを必要とする。
 もちろん政権党だけの問題ではない。誠意や覚悟は他の国会議員にも地方の議会にも、首長にも、自治体職員にも必要だ。それを可能にするには、市民の関心と、市民に関心を持たせ続けるための、絶えざる「情報の公開」以外はあり得ないように思う。
 『最小不幸の社会』という言葉には、権勢に群がる者たちには苦手な、「市民の目線」を突きつけ続ける力があってほしいものだ。
 

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