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碧濤のひとりごと

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ストレステスト

 原発再稼働を急ぎたい原発一家に「待った」を掛けた形のストレステスト。このまま、この夏を乗り切れば、「原発を稼働しなくても・・・」との実績ができる。後出しジャンケンのように言い出した感じのあるストレステストではあったが、へそ曲がりとしては、「菅首相は経産省の独走をギリギリまで目をつぶったふりをしていた」と思いたい。
 原発再稼働の可否は、原子力安全・保安院の検査で判断する仕組みになっているが、今回の事故を引き起こす原因をつくったのは東電ばかりではない。もう一方の当事者は、この原子力安全・保安院だ。そこの検査をもって再稼働を許すということは、“犯罪者に自分の裁判をさせている”ようなもので、国民は納得しない。原発再開を急ぎたい経産省もストレステストは無意味と知りつつ反対はしにくい。
 電力需要が最大となる夏に原発稼働を間に合わせ、なんとか「原発必要」の世論を盛り上げたい一味の出鼻を、ストレステストが阻んだと言えなくもない。
 郵政解散を思いとどまらせるべく出向いた森元首相が、干からびたチーズと缶ビールでの小泉対応に怒ったことがあった。後日、小泉シナリオに沿った森の演技であると分かったが、マスコミも国民もだまされた。ふらふらして見える菅首相の狙いが本心「脱原発」にあるのなら、小泉元首相以上の役者かもしれない。菅総理の次のシナリオも瓢箪から駒になることを期待したい。
 EUの例ではストレステストに半年くらいかかるという。冬の電力需要期も原発運転休止で乗り切らざるを得なくなれば、脱原発に弾みがつく。震度6で壊れるチャチな原発に、安全と結論する要素だけ入力計算しても意味はない。批判されて当然のストレステストだが、原発の安全を高める検証効果ではなく、エネルギー転換への政策効果として、私は密かに期待している。

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日本の評価を落とすもの

 とんでもない馬鹿野郎がいたものだ。松本龍復興相のことだ。首相退陣だけのための確信的発言だとしたら、低能最悪の手段であり、本音だとしたら、慢心ここに極まれりを露呈したことになる。おそらくは本音なのだろう。その発言を叱責するでもなく、幹事長も官房長官も庇おうとするのだから、政界人の心底には同じ価値観が潜むと考えた方が良さそうだ。
 内閣府の「地域主権」トップページには「地域主権改革は、地域のことは地域に住む住民が責任を持って決めることのできる活気に満ちた地域社会をつくっていくことを目指しています。このため、国が地方に優越する上下の関係から対等なパートナーシップの関係へと転換するとともに、明治以来の中央集権体質から脱却し、この国の在り方を大きく転換していきます。」
とあるが、松本発言は、中央集権体質をよく顕している。
 「(水産特区は)県でそれコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々、何もしないぞ。だからちゃんとやれ。今、あとから自分(知事)が入ってきたけど、お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。いいか。長幼の序がわかっている自衛隊なら、そんなことやるぞ。分かった?」
 被災者の団結力や気概は世界に日本人の底力を示し、日本に対する評価を高めているが、権力の座におごる、政官学の似たような連中が、日本の評価を落としている。政権交代に何の意味があったのか、むなしさが消えない。

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恥の文化

  経済産業省は6月26日、玄海原発の安全対策に関する佐賀県民向け「説明番組」をケーブルテレビやインターネットで中継した。
 2009年12月にプルサーマル運転し、1年後に緊急停止した、玄海原子力発電所3号機を、検査停止中の2号機とともに再開するための説明会だが、実は、3号機がプルサーマル運転される前の2006年に、京都大学の小出裕章氏や、原発推進派の東京大学大橋弘忠氏が参加し、白熱論戦したシンポジウムがあった。
http://www.youtube.com/watch?v=2WVTSIZNiVs&feature=youtube_gdata_player 等参照)
 推進派の主張は一言で言えば「万全の設計であり、反対派が懸念している事故が今まで起きていないのだから安全だ」と聞こえる。
 反対派は、「起きては困ることが起きる可能性があるから反対だ」で、主張は平行線となる。今回の福島原発事故前であったから、推進派の主張に納得する人も多くいたろうと思う。
 しかし、その懸念していた事故が起きたにもかかわらず、この巨大装置は、いったん動き出すと、容易に止められるようなものではないと当時の賛成派にもよく分かっただろう。
 耐震設計の見直し議論が起きているにもかかわらず、福島原発事故は津波が原因であり、津波対応ができれば玄海原発も安全だとして再稼働しようとする、この説明会がそれを物語る。
 電力会社や原子力保安委員会の、施設も機能も、ついでに社宅も、原発施設敷地内に閉じ込めてしまえば、推進派の本心がよく見えてくるのにと、低俗な妄想が湧き上がるのは恥ずかしいが、根にあるのは、堅固に構築された責任回避システムと、システムを運用する上部層の道徳観の欠如、つまり、「恥の文化」の喪失にあるような気がする。
 そうでなければ、顧問と称して社長退任後も同じ組織が抱えるのも、抱えられるのも理解できない。収監前に馬鹿騒ぎするホリエモンと同じ穴のムジナではないのか。どちらも自殺者を出すほどの事件になっているのに責任も恥も感じているとは思えない。おそらく日本のトップの多くが病んでいるに違いない。
 復興の過程を追跡し、たくましい庶民の記録を残すのは大切な作業だが、その底流にあるはずの、日本人の「恥の文化」を、社会システムの中に再構築する作業が、もう一つ必要な気がする。

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脱原発解散

 日本の原発事故の影響を受けて、ドイツもイタリアも脱原発を決めた。ところが、当事国の我が国で脱原発への動きがうねりとならならい。日本国をつくってきた装置も仕組みも疲弊していることは明らかなのに、そのシステムを維持することでリーダーになった産学のトップ集団と、ご相伴に預かっている政官界のトップが動かないからだ。
 国の行く道を決めるべき他の議員も、政界力学のシステムには従順なようで、事ここに至っても国民に背を向けたまま、未来ある子供たちに顔向けできない対応を続けているように見える。
 肝心の震災対応より政争の明け暮れに日々を費やすなら、いっそのこと原発解散をすればいいのだ。4/1の本ブログが絵空事ではなくなっている。
 「今すぐに全ての原発を止めろ」と、原発寛容派に対立する必要もない。それこそ原発推進派の思うつぼだ。クリーンエネルギー導入促進と並行した脱原発宣言をすればよいだけだ。
 劇場型選挙と言われた小泉郵政解散の時とは違う。
 国民は、特段の配慮がされているはずの装置が、簡単に壊れ、壊れてもすぐに復旧できないことを知り、流れ出た放射能は回収できず、これから何十年も地域の封鎖が余儀なくされることを知った。そして安全安心な原発などないことを痛感した。
 政権交代した政府も、放射能の基準値を緩めて「直ちに被害はない」として、多くの人を被爆させ、周辺地域を含めた発がん者の増加が確実というのに、「必要な装置」だと、国民を言いくるめようとしていることも知った。
 企業等の持つ潜在的な非常電源の発電能力をフル稼働すれば、現在でさえ、原発不要との意見もある。売電と送電と発電を分け、小さな民間事業者の参入も許せば、クリーンエネルギーによる脱原発も加速しよう。
 良識ある多くの専門家も声を上げている。正常な国会にするためには、脱原発解散が有効だ。多くの国民は脱原発を言わない候補には、投票しないだろう。経済成長を謳歌した世代の責任を、未来に押しつけるような選択を、国民は許さないはずだ。正しい道が分かっているのに、その方向に進めないのなら、独裁政治と同じではないか。

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 全宇宙にある星の数は300垓(がい)個、300×1020 個という膨大な数だそうだが、300億人に1兆円ずつばらまいた総額が300垓円といえば何となく想像はできる。更に、全宇宙の原子数ともなると、想像を絶するが、数字の記述は1080~1090個とあっけない。
 比較に意味があるかどうかの疑念もあるが、ちょっと自分の命の存在する偶然を考えてみた。人の精子数は一回の射精あたり数千万から数億個、一生で1、2兆個の精子が造られるそうだ。自分には母もいるから、受精可能な卵子を生涯500個として、2兆個の精子との組み合わせを考えると、2兆×500=1000兆(1015)の組み合わせが可能だったはずであり、その一つが自分の命となった。
 父と母も、同じ組み合わせの中のたった一つの可能性をモノにして誕生したのだから、祖父母から自分を考えると、1015 ×1015 =1030 の組み合わせのたった一つの命となる。計算に間違いがなければ、4代遡っただけで10120 、組み合わせ数は全宇宙の原子数を上回ることになる。
 全宇宙の中から特定の1個の原子を取り出すのは、一億人に一人しか当たらないクジに10回も連続して当たるようなもので、不可能と言っていい。しかし、自分の命がここにあることは、その不可能を遙かに超えているのだから「不可思議」で、人智及ばざる「必然」と考えた方が良さそうだ。つまり自分をあらしめる必然のために、過去営々とつながる祖先が存在したと考える方が自然だと思える。
 人智及ばざる命だからこそ、当然に、こざかしい人の計算で無造作に扱われてはならないし、効率や採算で命の価値を量られてはかなわない。
 美辞麗句の裏で、かけがえのない命が無造作に扱われている。原発事故はそれを多くの人に知らしめた。命の持つ意味を再確認すべき時代なのではなかろうか。

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