忍者ブログ

碧濤のひとりごと

Home > ブログ > > [PR] Home > ブログ > エッセイ > 命

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 全宇宙にある星の数は300垓(がい)個、300×1020 個という膨大な数だそうだが、300億人に1兆円ずつばらまいた総額が300垓円といえば何となく想像はできる。更に、全宇宙の原子数ともなると、想像を絶するが、数字の記述は1080~1090個とあっけない。
 比較に意味があるかどうかの疑念もあるが、ちょっと自分の命の存在する偶然を考えてみた。人の精子数は一回の射精あたり数千万から数億個、一生で1、2兆個の精子が造られるそうだ。自分には母もいるから、受精可能な卵子を生涯500個として、2兆個の精子との組み合わせを考えると、2兆×500=1000兆(1015)の組み合わせが可能だったはずであり、その一つが自分の命となった。
 父と母も、同じ組み合わせの中のたった一つの可能性をモノにして誕生したのだから、祖父母から自分を考えると、1015 ×1015 =1030 の組み合わせのたった一つの命となる。計算に間違いがなければ、4代遡っただけで10120 、組み合わせ数は全宇宙の原子数を上回ることになる。
 全宇宙の中から特定の1個の原子を取り出すのは、一億人に一人しか当たらないクジに10回も連続して当たるようなもので、不可能と言っていい。しかし、自分の命がここにあることは、その不可能を遙かに超えているのだから「不可思議」で、人智及ばざる「必然」と考えた方が良さそうだ。つまり自分をあらしめる必然のために、過去営々とつながる祖先が存在したと考える方が自然だと思える。
 人智及ばざる命だからこそ、当然に、こざかしい人の計算で無造作に扱われてはならないし、効率や採算で命の価値を量られてはかなわない。
 美辞麗句の裏で、かけがえのない命が無造作に扱われている。原発事故はそれを多くの人に知らしめた。命の持つ意味を再確認すべき時代なのではなかろうか。

拍手[1回]

PR

Comment0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword

PAGE TOP