2012/10/02 Category : エッセイ 団塊世代の使命 我々の団塊世代も年金があたる年代に入ってきたが、今の高齢化社会の有り様を予想して、若いころから備えてきた友人がいる。5年後、10年後の年金は当てにしていないし、制度の完全破綻さえ想定済みと彼は言う。外国暮らしに備えて語学勉強もしているし、異国の友人との付き合いも欠かさない。貯金も各国通貨に分散している。 それに比べ、自分の体たらくはどうしたことだ。年金があれば何とかやっていけるだろうと、心のどこかで、根拠もないのに安穏と思っている。否、堕ちるときは日本人みなが堕ちればいいのだ、と少し投げやりに思っているのかもしれない。先日の大学卒後40年の同期会でその感を深くした。おそらくは同じ世代の多くが、これからも日本は安全だろうと、根無し浮き草のような感覚で毎日を生きるようになってしまっているのではないのか。 一部とはいえ、様々な世代や階層の日本人が世界で活躍していてくれるから、かろうじて日本の存在感を示してはいるが、外交も内政も政治の威信は地に落ち、近未来の設計図さえ描けないでいる日本。財界ははじけたバブルの残滓にしがみつき、政官界指導者層は財界にすり寄り、様々な専門技術者や哲学者・文化人も含めた国民の7割もが求める反原発社会へ向かう決意さえ示せないでいる。 先進国と言われるようになり、見習うべき先行事例は他の先進国にはほとんどないと考えた方がよい未来だからこそ、情報公開を進め、多くの国民の意見を聞くべきだ。政策決定に至る従来手法そのものが機能しなくなっているのは、進めた政策結果の現今世相がよく示している。生命を守ろうとする多くの国民の<本能的な直感>を<ポピュリズム>と片付けてはならない。 恩師の一人は、「今の日本の閉塞感を変えてくれるのは君たち団塊世代のような気がする」と言った。本当はそうあらねばならない。一部の指導者に未来を託す時代は終ったのだ。団塊世代の一市民として何かしなければならないのだ。バブル時代のおこぼれを、たとえ気づかぬままでも、それを掠めた世代の一人として、小さな行動でも起こすべき時なのだ。地に根の生えた生き方で...。 老い先を次世代のためにどう使うのか。人は使命の中に生き甲斐を見る生きものだ。退院間もないせいか恩師の声は少し弱々しく聞こえたが、そこには何か祈りにも似たメッセージが込められているような気がして、私の胸は共鳴するのだった。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword