忍者ブログ

碧濤のひとりごと

Home > ブログ > 記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

道義的責任社会

 社会的地位にある人の発言がこれだけ信用できない時代になると、「道義的責任」という言葉も死語になるのではないか、と思えてくる。原発事故の道義的責任を感じる人間なら、天下りも、退職金も辞退したはずだ。企業倫理も政権公約も単なるキャッチフレーズ、リップサービスに過ぎなかった。
 「企業の社会的責任」の解説には「社会的公正性や倫理性、環境への配慮などを取り込んでいく...」というような文言が使われるが、企業には、囲い込んだ利害関係者間の「オキテ(掟)」しかないのだと分かった。
 政治の世界も、「国民は、公約の実行より政権交代を望んだ」と聞き取れる岡田副総理発言に象徴されるように、仲間内の利害関係だけで安易な増税だけが先行する気配だ。議員定数も、沖縄米軍基地も、最低保障年金も、財源捻出も、公約は先送りだ。先送りとは骨抜き、または、しないことを意味すると考えた方がよい。
 社会的地位にある人たちにとって、道義的責任とは「法的責任を免れ得ない時に頭を下げる行為」と理解しておこう。
 「道義」とは、「人のふみ行うべき正しい道。道徳の筋道」、道徳とは「自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと」と辞書にある。今後、子供たちに「正しい道」や「良心」をどう説いていこうか。これまで、日本人は「人をだましてはいけない」と教えられてきたが、これからは「人にだまされてはいけない」と教えなければならないのか。
 情報は隠し、根本対策は先延ばし、結果の責任は取らない政府、官僚、大企業。こんな日本に未来があるのか。あるとすれば、やはり「市民自治」を根付かせることしかない。
 競争原理になじまない教育や医療、福祉、環境は自治の問題として扱われるべきなのだ。それは国を当てにしない、頼らない自治体が結束し、協力し、助け合う、道義によって結びつく「道義的責任社会」とでもいうべき自治のありようではなかろうか。

拍手[2回]

PR

管理社会の前提

  全体を監視するシステムはどこか異常だ。常識的な社会を乱す者もあるが、それは、全体のごく一部である。常識的とは、意見の違いを認めあう、という程度の意味である。
 どこへ行き、何を買い、誰と会ったか、監視カメラや電子機器情報で、たとえ一括りに管理できても、正常な人を管理してはならない。「管理しないシステム」も同時に構築しないと健全社会とはいえない。
 利用者のマナーが悪いから自転車にもナンバープレートをつけてはどうか、という議論も同様に考えるべきだろう。病んだ社会を正常に戻す装置は「管理」ではないからだ。
 行政事務効率化のために「個人情報が国に把握されて何が悪いのか」、と単純に思っていた時期があった。悪用されるという明確なイメージを思い描けなかったのは、管理社会の恐ろしさに頭が回らなかったからだ。
 弱者の痛みを知らない、分かろうとしない類の狡猾者に社会を管理させるのは、泥棒に財産を預けるのと大差ない。狡猾者は情報を隠匿し、情報を操作し、果ては情報を捏造するようになる。チェックシステムも働かず、正常状態への復元システムも機能しない社会ができる。
 管理社会が悪い、というのではない。公共課題が頻発する都市型社会には、安全安心な暮らしを成り立たせる管理という業務は重要だ。重要な業務だからこそ、管理する立場の者たちに、より良い社会を建設していこうとする「強い意志」と、「深い思索」、「人としての条理」がいる。
 政治の貧困と言ってしまえば元も子もないが、複雑化する国際情勢の中で、我が国がどこへ向かおうとするのか示すのは政権政党の役割であろう。進むべき方向まで官僚に任せて決めるべきではない。
 生活弱者を切り捨て、選挙民への公約を反故にし、未来を汚したまま更に汚す選択をするのは、政治家が、国民の幸せをきちんと見据えていないからだ。人の道に則って、筋道を立てた内容で、義務と権利を示すのが政治家ではないのか。官僚は、自分に責任が及ばないよう慎重を期しながら、国民の幸福より利権を守る方に動くものだ。
 今回の大震災で我々は繁栄の中身を知った。被災者の背後に、生き延びようとする利権、温存された利権があり、復興に伴う新たな利権も渦巻き出している。
 日本らしい、医療と相互扶助を生かした福祉社会、原子力に頼らないエネルギー社会の構築は可能なはずだ。国民は賢くならねばならない。真の「民主」を構築しなければならない。大震災からの復興はそれを一人一人に問うているのだ。

拍手[2回]

天然ガスパイプライン

 一昨年、最高気温35.7度、6千万キロワットの最大電力需要を記録した東京電力。東日本大震災後の昨年は最高気温36.1度のその日、管内住民や企業の協力で5千万キロワットに抑えた。今年の夏の関西電力も他電力会社の融通や様々な協力でおそらくは足りるのだろう。しかし、ムラ人は何としても原発を動かしたいらしい。
 せいぜい数時間の計画停電の被害だけが強調されるが、極端な話、停電になって国が滅びるとでも言うのだろうか。
 電力会社ホームページには節電要請がトップ画面に確かにあるが、どれほどの人がわざわざそれを見にいくというのか。原発推進のための電力会社PRは震災前あれほど頻繁にテレビに流していたのに、節電に関心を集めるPRを一向に見ないのはどうしてか。節電をしてほしくない電力会社の本音を象徴しているかのように感じられてくる。
 70年代から日本も参加し、資源探査が相次ぎ成功した「サハリン1」プロジェクト。今から10年ほど前には、日本へ年間750万トンをパイプラインで供給し、首都圏に運ぶ計画が示された。LNG(液化天然ガス)船は運搬距離約5千kmがパイプラインとの経済分岐点というから、首都圏まで2千km、稚内から北へ40kmの、目の前にあるようなサハリンのガスを運ぶにはパイプラインの方が有利だ。しかし、原子力発電に比べ割高だと電力会社は購入に難色を示した。理由は外にあったといわれる。
 パイプラインは、途中で支線に引くことができ新規参入者が容易に発電所建設ができるからだ。その点、LNGなら専用船、貯蔵施設が必要となり、電気会社は燃料を囲い込める。
 今、発電量の25%以上を担う天然ガス輸入量は年間約8千万トン。内6割が発電用と言われ、10年~20年の原油価格連動型の長期契約だ。大震災後の燃料需要のため、LNGのスポット価格は2倍に高騰した。LNG運搬船も足りないという。燃料高騰は結局は消費者の電力料金に跳ね返ることになろう。原発稼働制限下、この状態は今後しばらく続くのではないか。
 パイプライン敷設は陸上で1kmあたり2億円、海底敷設では3億円程度、敷設日数は驚くほどはやく、サハリンと稚内間の40数キロなら10日もあれば敷設できると聞く。中国向けの販売条件が折り合わずにいるエクソンモービルに交渉の余地はあるともいうから、少なくとも、北海道までは、パイプラインを再考すべきであろう。脱原発への代替エネルギーは天然ガスが主体になろう。CNG自動車も実用化されている。低廉な米国シェールガスの増産も始まっている。割高の原油価格連動方式に縛られない天然ガスの多様な入手手段を構築すべき時である。
 東日本大震災という悲劇を脱原発への好機として捉え、その可能性を誰がどう提案し、誰がそれを実現に向かわしめるのか。国家的プロジェクトを誘導する北海道の役割もあるはずだ。リーダーシップと政治力、政策提案力が求められている。

拍手[2回]

「無行動」という敵

 5月5日の子どもの日に、泊原発3号機が定期検査のために休止し、全国50機の原発全てが停止状態になった。本当に「子どもの日」を考えるなら、このまま原発から決別できないものか、と思う。
 電力会社にとっては、原発事故の危険性より、施設の資産価値(使用済み核燃料も再処理可能だから資産)が大事らしい。総括原価方式とやらで資産に定率を乗じたものが事業報酬となるから資産の半分を占める原発施設を関電は手放せない。5月3日のモーニングバード(テレビ朝日)は、事ここに至っても正常な人間の思考に戻れない電力会社の現実を教えてくれた。
http://www.dailymotion.com/video/xqjuay_20120503ayyyyyyyyyyyyyyyy_news?start=8
http://www.dailymotion.com/video/xqjubw_20120503byyyyyyyyyyyyyy_news 
 だから、電力確保や節電要請に向けて必死に動く訳でもなく、電力不足の不安をあおり国民をだまし続ける。
 現在の我が国には何か共通して足りないものがある。金か?金が回れば全てがうまく動き出すのか?否、我が国に一番足りないのは「宗教心」ではないのか、そんなことを思う。特に政・産・官・学のトップ集団に宗教心が足りない。利権優先社会でトップにのぼりつめるには宗教心は邪魔なのかもしれない。宗教心の足りない者が集まると組織は容易に非人道化する。私のいう宗教心とは思いやりの心である。
 昨年ブータン国王御夫妻が訪日され被災者を見舞われた。経済的富によらないブータンの国民総幸福という指標に心ひかれた人も多かったと思う。何かしら心ひかれるということ自体が宗教心の現れではないか。
 利権集団と戦うにも宗教心が必要な気がする。ブータンに心ひかれても、原発事故に対し「無行動」でいるのは、「無関心」とさほど違いはない。「無関心」は宗教心の最大の敵ではあるが、「無行動」も結果的に利権集団に協力していることにさえなってしまうからだ。
 だから宗教心には具体行動が必要だ。たとえば原発三大メーカーの製品は買わないとか、我が家のオール電化を見合わせるとか、夜間電力を蓄電し昼に回すとか、家庭の照明をLEDに替えるとかできることはある。金がないなら、署名協力するとか、真実を伝えるインターネットサイトを教えるとか、それなりの行動もある。
 少なくとも、団塊世代には、自分にできる何らかの行動を起こしてほしいと思う。利権集団とは無関係だと叫んでも、私たち団塊世代あたりが「飽食時代」の<恩恵>を<貪った>世代なのは間違いないのだから。

拍手[4回]

99%層からの力

 いつもは適当なところで妥協してしまう私だが、今回の原発事故だけは何とも腹立ちが収まらない。「人災」だと認識する人が圧倒的に多いのに、責任の所在があいまいなままだからだ。犯罪性について検証、追求する報道も少ない気がするし、「被災者の救済、復興が一番」式の問題のすり替えにマスコミも手を貸しているように見える。しかし、このまま再稼働に向かい、何事もなかったように表面上平穏な日常に戻ることは許されない。我々には次世代に対する責任があるからだ。
 「人災は刑事事件」として検察庁も動かねばならないだろう。しかし、厚生労働省の村木厚子さんを罪人に仕立てた大阪地検の例もあるから、ひょっとして大罪人を野放しにするのではないかと一抹の不安が心の片隅に残る。組織が巨大すぎて手を出せないというなら法治国家は破滅だ。
 政界も政局のみが関心事で、「原発に頼らない日本の未来設計」についての議論は乏しい。阪神大震災のあとに建設された神戸空港のように、今回も、市民の手の届かないところで、巨大プロジェクトが復興の名の下で進められるだろう。高度成長期後の恒常的な税収不足や年金・医療制度の崩壊が指摘されたまま現在に至らしめた政治が、今は若者の未来さえを奪っている。30年後に生きている世代の価値観こそを未来設計に生かすべきなのに、10年後生きているか怪しい人がそれを左右する。
 これらの根底には、様々な利権によって成り立っている社会構造があり、つまるところは、それを許してきた政治に対する無関心国民層の厚さがあるように思われる。
 「愚かな大衆には国策を議論させない」とばかりに進めてきた官僚主導型政策が、公共課題の噴出する現代に対応できなくなっていることは、今回の原発事故の始末が端的に示している。大衆を市民へと昇華し、市民が決定に参加した政策ならば、結果がうまくいかないにしてもそれなりに諦めがつく。未来の構想は市民に委ねられるべき時代だ。
 「由らしむためには知らしむべし」なのだとの思いが募る。「由らしむべし知らしむべからず」の社会構造が残れるのは、おごれる1%の権力者たちに立ち向かう99%層からの力が足りないからだ。次世代の命がかかっている問題を責任を問われない権力者たちに託すことはできない。
 インターネット時代とはいえ、真実を発見するには時間も手間もかかっているのが現状である。知ろうと思えば、真実に容易に近づけるような情報社会の“あり方”も問われる。無関心を乗り越える民主政治に何が必要なのか、考えさせられている。

拍手[3回]

PAGE TOP