2012/06/26 Category : エッセイ 道義的責任社会 社会的地位にある人の発言がこれだけ信用できない時代になると、「道義的責任」という言葉も死語になるのではないか、と思えてくる。原発事故の道義的責任を感じる人間なら、天下りも、退職金も辞退したはずだ。企業倫理も政権公約も単なるキャッチフレーズ、リップサービスに過ぎなかった。 「企業の社会的責任」の解説には「社会的公正性や倫理性、環境への配慮などを取り込んでいく...」というような文言が使われるが、企業には、囲い込んだ利害関係者間の「オキテ(掟)」しかないのだと分かった。 政治の世界も、「国民は、公約の実行より政権交代を望んだ」と聞き取れる岡田副総理発言に象徴されるように、仲間内の利害関係だけで安易な増税だけが先行する気配だ。議員定数も、沖縄米軍基地も、最低保障年金も、財源捻出も、公約は先送りだ。先送りとは骨抜き、または、しないことを意味すると考えた方がよい。 社会的地位にある人たちにとって、道義的責任とは「法的責任を免れ得ない時に頭を下げる行為」と理解しておこう。 「道義」とは、「人のふみ行うべき正しい道。道徳の筋道」、道徳とは「自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと」と辞書にある。今後、子供たちに「正しい道」や「良心」をどう説いていこうか。これまで、日本人は「人をだましてはいけない」と教えられてきたが、これからは「人にだまされてはいけない」と教えなければならないのか。 情報は隠し、根本対策は先延ばし、結果の責任は取らない政府、官僚、大企業。こんな日本に未来があるのか。あるとすれば、やはり「市民自治」を根付かせることしかない。 競争原理になじまない教育や医療、福祉、環境は自治の問題として扱われるべきなのだ。それは国を当てにしない、頼らない自治体が結束し、協力し、助け合う、道義によって結びつく「道義的責任社会」とでもいうべき自治のありようではなかろうか。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword