2012/06/06 Category : エッセイ 管理社会の前提 全体を監視するシステムはどこか異常だ。常識的な社会を乱す者もあるが、それは、全体のごく一部である。常識的とは、意見の違いを認めあう、という程度の意味である。 どこへ行き、何を買い、誰と会ったか、監視カメラや電子機器情報で、たとえ一括りに管理できても、正常な人を管理してはならない。「管理しないシステム」も同時に構築しないと健全社会とはいえない。 利用者のマナーが悪いから自転車にもナンバープレートをつけてはどうか、という議論も同様に考えるべきだろう。病んだ社会を正常に戻す装置は「管理」ではないからだ。 行政事務効率化のために「個人情報が国に把握されて何が悪いのか」、と単純に思っていた時期があった。悪用されるという明確なイメージを思い描けなかったのは、管理社会の恐ろしさに頭が回らなかったからだ。 弱者の痛みを知らない、分かろうとしない類の狡猾者に社会を管理させるのは、泥棒に財産を預けるのと大差ない。狡猾者は情報を隠匿し、情報を操作し、果ては情報を捏造するようになる。チェックシステムも働かず、正常状態への復元システムも機能しない社会ができる。 管理社会が悪い、というのではない。公共課題が頻発する都市型社会には、安全安心な暮らしを成り立たせる管理という業務は重要だ。重要な業務だからこそ、管理する立場の者たちに、より良い社会を建設していこうとする「強い意志」と、「深い思索」、「人としての条理」がいる。 政治の貧困と言ってしまえば元も子もないが、複雑化する国際情勢の中で、我が国がどこへ向かおうとするのか示すのは政権政党の役割であろう。進むべき方向まで官僚に任せて決めるべきではない。 生活弱者を切り捨て、選挙民への公約を反故にし、未来を汚したまま更に汚す選択をするのは、政治家が、国民の幸せをきちんと見据えていないからだ。人の道に則って、筋道を立てた内容で、義務と権利を示すのが政治家ではないのか。官僚は、自分に責任が及ばないよう慎重を期しながら、国民の幸福より利権を守る方に動くものだ。 今回の大震災で我々は繁栄の中身を知った。被災者の背後に、生き延びようとする利権、温存された利権があり、復興に伴う新たな利権も渦巻き出している。 日本らしい、医療と相互扶助を生かした福祉社会、原子力に頼らないエネルギー社会の構築は可能なはずだ。国民は賢くならねばならない。真の「民主」を構築しなければならない。大震災からの復興はそれを一人一人に問うているのだ。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword