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碧濤のひとりごと

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参議院選挙を終えて

 参議院選挙が終わった。「原発はいらない」という人が、「原発は必要」とする政党を選択する現実は何を意味するのだろうか。政権公約を反故にし、国民を無力感の渦に追い込んだ民主党の罪は重い。
 「シャープの亀山モデルがおすすめ」と言われて、義弟と折半で義父母にテレビを贈ったのは、おそらく6年前のことだった。当時シャープの株価は2千円を超えていたが、その後、韓国、中国の低価格製品に押されていった。2012年の赤字額は3千億円台、株価は150円を切るまでに落ち込んで、大会社は倒産がささやかれた。
 太陽光パネルも、今や世界市場の6割は中国、台湾製品に取って代わられている。自動車産業も、情報通信分野も、何もかもが、新興国を含めた目まぐるしい開発・販売競争の中で一喜一憂を加速させていくように見える。
 グローバル社会というものが、「勝ち残らなければ、生き残れない」という世界ならば、いずれ、人類は、自らの存在を自らの手で否定する時が来るのではないか、という不安が募る。不安を裏付ける確証があるわけではないが、何万人も雇用するような大企業が、10年にも満たないうちに、頂点と奈落を行き来するような、経済社会のシステムは、あまりに危険ではないのか、と思うからだ。
 「デフレからの脱却が最優先」というまことしやかな言葉の背後に、個人の良識や良心の力では抗えない、巨大な暗雲が迫っているような気がする。
 原子力規制委員会が定めた新しい規制基準を無視して再稼働を申請した電力会社。「規制委員会が何を言おうが、最後は国策で国が支えてくれる」と胸を張っているかのように見える。マスコミも学者も大勢は現状追認の方向に向かって口をつぐんで見える。かつての戦争に至る歴史を繰り返す愚を犯しかねない危険性を感じる。
 「世界」7月号の宇野重規氏の論考で、大平首相時代、大平政策研究会があったことを知った。高度成長期後の社会の座標軸として、文化と暮らしの充実、都市と自然の融合、地域の多様性に基づく産業発展、家庭の自立と社会的連帯、ソフト化とグローバル化を前提とした環太平洋的連帯を議論していたという。
 その後席巻することになる、新自由主義とは異なる方向性を考えていた人たちがいたのだ。希望が尽きているわけではない。
 (参考:http://www.ohira.or.jp/cd/book/kyokasyuujitsu/ky_23.pdf

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サハリンの20年

 数日前の朝、サハリンでスーパーマーケットが開店したとのニュース放映があった。随分とサハリンも変わったと思った。
  初めてサハリンを訪ねた1992年当時の商店は、泥棒対策からか、商品の取り出しは売り手からのみ可能な構造の店が多かったし、靴などは店頭には片方しか出ていなかった。ソ連崩壊後間もないこともあって、街中の公衆電話は受話器が引きちぎられていた。土産には100円ライターでも、ボールペンでも喜ばれ、何もかもが足りなかった。車が止まると、バケツを持った10歳前後の子供達が5、6人駆け寄ってきて、洗車をしようとした。経済の混乱期、働かなければならない子供も多かったあの頃....
 沿道の市場(バザール)が賑わっていたので、活気があると思ったが、「働く場がないからうろついている」との説明に、己の無知を恥じた。たむろする若者がどうやって食べているかを通訳に聞くと、「泥棒をしている」と答えた。冗談かと思ったら、「あんな上等な靴は泥棒でもしないと買えない」と彼らの足下を指して真顔で言った。
 道路の除雪予算が足りずパトカーも走れないから冬は泥棒が増えた。金持ちの葬式の翌日は、急に埋葬者が多くなった。貧乏人は墓場までの除雪ができず、誰にも知らせず家に死体を置いていたのだ、との説明を受けた。
 日本語学科の学生通訳に他の視察団が1万円払っていた。1万円は教師の月給よりも高かった。私たちとは無関係の視察団だったが、大学を表敬訪問した際、副学長から「授業にならない」と抗議され、耳が痛かった。
 現在、液化天然ガスの積み出し基地に変貌したプリゴロドノエは、打ち上げられた昆布が延々と連なる海岸であった(写真クリックで拡大)。アニワ湾に面したこの海岸に韓国系友人の数家族とピクニックに出かけたことがあった。泳いだあとの食事はサケの三平汁(ロシア語ではウハという)、魚の調達は、目の前で網を引き揚げる漁師からだった。渡樺の船中、無税で買った缶ビール1本がサケ1本に換わった。
 「ルイーバ ダバイ」(お魚 ちょうだい)、ビキニ姿で奥さんたちが叫ぶ声と、舟から投げ返された魚の、水際にはねた光景が、まぶしい青空の記憶の中によみがえる。
 経済成長は功ばかりではないが、今となっては、何もかも懐かしい思い出の20年となった。
  サハリンの 打ち解け語る ホームステイ ドイツは嫌いの 声に驚く
  教会が あるからオハに 住むという 静かな声に 深き眼差し
  久方の オハの友との再会に 振り向くことなき 別れの不思議
  オハの夏 道延々と薄紅の 手折り持て来る 君がその花
  首保(も)たぬ 土くれの道越え来たる 今日が押し寄す ノグリキの宿
  ベリー売る 子等は喜ぶ 黒糖に 戦後重ねて サハリンに居り
  食べきれず ホテルに持ち込む シニッツェリ 最後の肴に 残り酒飲む
  国境を 挟む日露の 慰霊碑を 花は変わらず 車窓過ぎゆく
  直(す)ぐ高き 松と白樺 風光 ダーチャに 夏の 駆け抜けていく
  明日帰る 帰る向こうと 今のここ シャシリクかじり ダーチャに思う
  夕暮れの ダーチャに哀し バイアンの 帰り難くて 息を吸い込む
  サハリンの 木イチゴの実の 大きくて 金あることの 何の豊かさ

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TPP参加に反対の理由

 TPPの勉強会に出たが、「さっぱり分からない」のが実感だ。「やってみなければ分からない」と言う政治家までいるのだから、わが国の行く末に不安は一層つのる。ここまで来てしまったから不参加とはならないのだろうが、<命>を守る視点からは反対、としか言わざるをえない。
 既得権益にしがみついてきた産業や団体があるのは事実だから、競争力を阻む規制や保護策を外すことを進めてから、TPP参加を言うなら分かる。しかし、TPPへの参加をまず決め、規制や保護策を強制的に壊して、活気ある日本を取り戻せるとは思わない。農業を巡るTPP参加積極派の論調も、自国農業の近未来のありようを、納得させるものではない。世界異常気象や国際紛争下でも最低食糧を確保できるのか、かつて失敗した「農地の集約化」政策はどこまで可能かなど、<命>の視点からは重要な事前検討事項だったはずだ。
 日本では、過去数十年間の牛肉消費量と、ホルモン依存性ガンの発生数が軌を一にするように上昇しているという。米国産牛肉等には国産と比較にならない濃度の残留成長ホルモンがあり、子宮体がんの増加はそれが原因だとの指摘もある。しかしそれを問題に輸入規制すれば、日本の許容値こそが不当な差別として訴えられる可能性がある。つい先日の、NHKクローズアップ現代では、沖縄が長寿県ではなくなったことが取り上げられていたが、欧米化された食生活が原因とのことだった。健康、寿命という<命>も個人的な食生活の問題とばかり片付けられるべきではあるまい。
 安い労働力の流入で、労働者派遣法で悪化した雇用環境が更に悪化し、働きがいを失った非正規雇用者が今以上に増える可能性もある。結婚もできず、国としての生命力が削がれていきはしないかという不安も消えない。働きがいというのも<命>の大事な側面ではないのか。
 極端な例えではあるが、「輸入食材でガンになり、外国からの特効新薬は健康保険の対象外で、ガン保険は外資保険が市場を席巻」という<ゆがめられた寿命市場>を想像してしまう。ガン保険に加入する余裕のない人は、特効新薬の恩恵を受けられず、更に寿命を縮めて旅立っていく。
 3.11以降のだらしない政治対応を見ていると、近未来の日本像を示せないのに、経済のグローバル化を促進する制度のみで国益を論じるのは、戦略のないまま目先の戦術を議論するのに似ていると思える。
 富がさらに偏在して、国民の大多数を利用した新たな利権の温床市場を日本に築くことになるのではないかという、へそ曲がりの私の疑念は晴れないまま、勉強会は終わった。
 ではどうするかと自問すると、経済的尺度とは別の価値軸が必要な時代に入ったのではないかと考える。それは、基礎自治体が多くの役割を担うのであろうが、日本人の生命観に根ざした視点から政策を創り出すということだ。
 テレビなどで世界に散らばる日本人の活躍を見るたびに思うのであるが、日本人の精神根源には、太陽に手を合わせ「ありがたい」と思うような心情がある。日本に惹かれる外国人が共感するのも、そんな心性の日本ではないのか。<命>を敬う価値観に基づく政策の視点から、中小企業などに眠る沢山のオンリーワンを育み、施策展開する末端現場の声を汲み上げ、結果をグローバル社会に還元する。それが行き詰まった経済優先世界に日本が示すべき役割なのではないのか、と思われて仕方ないのである。

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憲法改正議論に思う

 安倍内閣になって経済が上向き、憲法改正を支持する国民まで増えているようである。憲法の<改正>というなら、現憲法の何が<正しくない>のか、どこが時代に合わないのか、GHQに一方的に押しつけられただけの憲法というのは本当なのか、日本国憲法制定の過程・背景をまずはふり返ってみるべきだろう。
 1945年8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、日本占領が開始された。ポツダム宣言では「日本国民の自由に表明せる意志に従い、平和的で責任ある政府が樹立されたとき占領が終わる」とされ、マッカーサーはこの原則に従い、日本人が自発的に憲法改正することを望んでいたという。当時の日本政府の認識はどのようなものであったのだろうか。
 1945年9月5日の帝国議会で、東久邇宮首相が「戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説」を行った。「・・御詔書にも御諭しを拝する如く、我々国民は固く神州不滅を信じ、如何なる事態に於きましても、飽くまでも帝国の前途に希望を失うことなく、何処までも努力を盡さねばならぬのであります・・」
 東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、「反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張し、司法大臣は政治犯の釈放を否定していた。
 10月4日、GHQは日本政府に対し人権指令を発し、政治犯の釈放、治安維持法の廃止など言論統制の撤廃、天皇に関する制限のない議論、特高警察職員らの解雇などを命じるが、東久邇宮内閣はこの指令を実行できないとして、翌5日に総辞職した。
 10月10日、次の幣原内閣は、指令に基づき政治犯約3,000人を釈放し、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。
 10月11日、マッカーサー・幣原会談では秘密警察の廃止、婦人参政権付与、労働組合の奨励、教育の自由化、経済機構の民主化の5大改革を指令し、「ポツダム宣言実現には、疑いもなく憲法の自由主義化が含まれる」と伝えた。
 幣原内閣は東大教授、法制局官僚らからなる憲法問題調査委員会(委員長国務大臣松本烝治)を設置して、「憲法改正の必要があるかどうか学問的に調査する」という方針をとった。
 一方、政府の鈍い動きとは別に、憲法の改正を真摯に考えていた在野の日本人も少なからずいた。
 10月29日、高野岩三郎の呼びかけで「日本文化人連盟設立準備会」が設立された。高野は当時73歳、元東大教授で戦前は大原社会問題研究所で統計学の立場から貧困、失業等の社会問題の解決に取り組んできた。敗戦後、新しい日本文化の創造を掲げ、デモクラシーとヒューマニズムに基づく国家建設を訴えた。この日本文化人連盟設立準備会には憲法学者鈴木安蔵も出席していた。鈴木は「憲法改正を国民的運動たらしめなければならない、新憲法制定の運動をしよう」と高野から働きかけられ、「憲法研究会」が結成された。
 鈴木安蔵は当時41歳。京都大学在学中に治安維持法違反で退学、収監された経験から、国家の根本は憲法にあると考え、独学で明治憲法制定の歴史を研究する。その過程で大正デモクラシーを牽引した政治学者吉野作造の知遇を得、明治の自由民権運動家、植木枝盛(著書 民権自由論1880年)を知る。「国家は人民の自由を守るためにこそある。そのために憲法が必要だ」と主張した植木の憲法草案には、すでに主権在民思想が盛り込まれていた。
 カナダ人の近代史研究家ハーバート・ノーマンは戦前在日したことがあり、憲法史研究会で鈴木とは旧知の仲であった。カナダ政府からGHQに派遣されていた彼は、1945年9月、鈴木宅を来訪した。「根本的な国体の批判が日本民主主義化の前提ではないか。このままでは再び国家主義的風潮が強化される危険がある」との彼の言に、鈴木は憲法問題の根本的再検討の必要性を痛感した。
 「憲法研究会」には、高野、鈴木のほか、岩淵辰雄(51歳、政治評論家、戦時中、戦争の早期終結を工作し、憲兵に逮捕された)、室伏高信(53歳、政治評論家。戦後いち早く雑誌「新生」を発刊、大正時代はデモクラシーを掲げて論壇にデビューしたが、軍部批判をして戦時中執筆を禁止されていた)、馬場恒吾(70歳、言論界の重鎮、国際平和主義を掲げた。英字新聞記者出身。徹底した自由主義的評論で大正時代から有名だった。戦争中執筆の場を奪われていた)、 森戸辰男(56歳、社会政策学の研究者、戦前、失業や貧困を研究。言論弾圧により東大を追われ単身ドイツに渡る。第一次大戦後のインフレ失業の中、生存権を国家が保証すべきだとしていたワイマール憲法に注目した)、杉村孝次郎(64歳、文化人連盟に参加していた文芸評論家)が参加していた。
 11月5日の憲法研究会第1回会合から第3回会合までは憲法の根本原則が話され、計5回の会合がもたれた。
 1945年12月26日、鈴木がまとめた全58条からなる「憲法草案要綱」が発表された。国民主権や生存権規定などを盛りこんだ憲法草案要綱の内容にGHQのスタッフも注目し、完成度の高さはGHQを驚かせるものだった。
 一方、<学問的に調査していた>政府改正案の進行状況はどのようなものであったか。
 1946年2月1日、GHQに急かされていた松本試案の中身が<君主国>であることを毎日新聞がスクープした。
 2月3日、マッカーサーは日本の憲法改正に際して守るべき三原則(マッカーサー・ノート)~天皇は国家の最上位、国権の発動たる戦争廃止、封建制度の廃止~をホイットニー民政局長に示しGHQ草案作成を指示する。
 2月11日、11章92条からなるGHQ草案が完成。
 2月13日、ホイットニー民政局長等は外務大臣官邸で松本烝治、吉田茂に草案を提示し、受け入れないなら草案を直接国民に問うことになると迫った。GHQ草案を国民は受け入れるとの確信があった。
 3月6日、GHQ案に沿った「憲法改正草案要綱」が発表され、6月の帝国議会で審議される。衆議院、貴族院で反対したのは、共産党所属議員を含めたった8人のみであった。なお、憲法研究会の一員でもあった森戸辰男(衆議院議員)が生存権の追加を提案し、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の第25条が追加されたことは、現在の日本の生活困窮者を救う大きな拠り所になっていると言えよう。
 11月3日、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」を三大原則とする「日本国憲法」が公布された。
 ざっと見ても、以上のような過程をたどるのではあるが、戦前の知識人への弾圧も、戦争突入の決定も、全て国体としての天皇を冠した君主制の下で、一般国民から遠いところで国策を操る者がいて可能だったと考えられる。操る者の拠り所は「大日本帝国憲法」にあったからこそ、その「改正」が必要とされたのだ。
 明治民権運動から、大正デモクラシーに至る過程で、吉野作造、福田徳三、河上肇たちの先駆者が、主権在民や生存権などについて、多くの国民を啓蒙していた。往時の記憶が日本人に生き生きと残っていたからこそ、憲法改正の国会審議も順調に進み、国民も受け入れたのだと思う。戦前・戦中の弾圧を生き延びた先人が、どんな思いで現憲法をつくってきたのかに思いを馳せるとき、軽々しく変えられるものではないことが分かる。
 今では、『憲法には<国民も守る義務がある>と記載すべき』との国会議員がいるそうだ。憲法第99条をどう読んでいるのか、こういう議員には『あなたたち為政者側が守るべきものとして憲法があるのだ』、『日本国憲法は国民の自由・権利を保障するためにこそ作られてきたのだ』と、多くの国民が胸を張って言うべき時のような気がする。

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政治責任

 一万人に一人程度が自動車事故で死ぬというが、我々はそれを受容しているから、車社会が成り立っていられる。物品購入も職業選択も、<+>と<->の可能性を秤にかけて判断し、一喜一憂しながら結果を受容し人は生きている。経済社会は<+>と<->、<便益>と<リスク>の折り合いの総体によって成り立っているのだとずっと思ってきたが、リスク(-)も限度を越えると「秤にかけてはならない」と思わされたのが、3・11原発事故だった。原発事故は便益をはるかに超え、未来さえも飲み込んで取り返しのつかないような禍を及ぼした。
 安倍首相は、2月の施政方針演説で「安全が確認された原発は再稼働する」と言った。しかし、<絶対に安全>はないから<安全が確認された原発>にも事故は起こりえる。だから「脱原発政策を見直す」という選択肢はあり得ないはずだ。国民の7割が経済政策等に期待して新政権を支持しているというが、同じく7割が生命倫理から脱原発を言うのである。脱原発は、産業振興に優先する現実課題であろう。確かにこの20年、経済停滞下の日本丸は、荒波にもまれ上下するだけの大船で、どこに進もうとしているのかが見えなかったように思う。今もそれは続くが、新しいエネルギー革命で別の展開が生まれようとしている。
 ここ数年でアメリカ、カナダのシェールガス、オイルは商用段階に入り、天然ガスの寿命は400年延びるとも言われている。我が国でも年間ガス使用量の100倍はあるという近海メタンハイドレートからのガスの試験生産にも成功した。アメリカから日本へのシェールガス輸出も時間の問題で、輸入ガス価格は3割減少するとの試算もある。エネルギーをめぐる世界の力関係は大幅に変わり、我が国の価格交渉力も増すであろう。掘削機器、圧力容器、水処理などの関連技術では世界を席巻する日本。波及効果は鉄鋼、運輸、観光など隅々に及び、原子力に頼らなくても未来を展望できる時代が訪れようとしているかに見える。
 そんな折、中国覇権をおそれるあまりか、防衛上の後盾であるアメリカの利権集団に屈してか、主権を売り渡すようなTPP交渉参加を決めるらしい。何だか、更なる新自由主義の荒波に日本丸を投げだし、アメリカの植民地という海に沈没させかねないように思える。
 政党政治がなすべきは、拙速なTPP交渉参加ではなく、まずは日本丸をどこに進めようとしているのかを示すことであり、国民の理解を得ることだ。経済大国となっても幸福感と結びつかないのは、国民の価値観や地域文化に裏打ちされた国のありようを軽視し過ぎたからではないのか。日本には日本らしい未来づくりがある。進む先に希望があるなら国民は困難にも耐えていこう。それは、隣国に向けても、友好国に向けても発しなければならないメッセージの、政治責任であると思える。

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