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碧濤のひとりごと

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無題

日本国憲法は、あれだけの犠牲を払った上で我々が獲得した世界の宝です。天皇から三権の長、国務大臣、議員に対して、国民の側から厳守を命令する性格のものです。勘違いする議員が実在すること自体、議員と議会の弱体化が進行していることの証左です。今は「攻め」て「守る」べきとき。単なる知識に終わらせずに行動を。分かるとは動くことです。

憲法改正議論に思う

 安倍内閣になって経済が上向き、憲法改正を支持する国民まで増えているようである。憲法の<改正>というなら、現憲法の何が<正しくない>のか、どこが時代に合わないのか、GHQに一方的に押しつけられただけの憲法というのは本当なのか、日本国憲法制定の過程・背景をまずはふり返ってみるべきだろう。
 1945年8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、日本占領が開始された。ポツダム宣言では「日本国民の自由に表明せる意志に従い、平和的で責任ある政府が樹立されたとき占領が終わる」とされ、マッカーサーはこの原則に従い、日本人が自発的に憲法改正することを望んでいたという。当時の日本政府の認識はどのようなものであったのだろうか。
 1945年9月5日の帝国議会で、東久邇宮首相が「戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説」を行った。「・・御詔書にも御諭しを拝する如く、我々国民は固く神州不滅を信じ、如何なる事態に於きましても、飽くまでも帝国の前途に希望を失うことなく、何処までも努力を盡さねばならぬのであります・・」
 東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、「反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張し、司法大臣は政治犯の釈放を否定していた。
 10月4日、GHQは日本政府に対し人権指令を発し、政治犯の釈放、治安維持法の廃止など言論統制の撤廃、天皇に関する制限のない議論、特高警察職員らの解雇などを命じるが、東久邇宮内閣はこの指令を実行できないとして、翌5日に総辞職した。
 10月10日、次の幣原内閣は、指令に基づき政治犯約3,000人を釈放し、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。
 10月11日、マッカーサー・幣原会談では秘密警察の廃止、婦人参政権付与、労働組合の奨励、教育の自由化、経済機構の民主化の5大改革を指令し、「ポツダム宣言実現には、疑いもなく憲法の自由主義化が含まれる」と伝えた。
 幣原内閣は東大教授、法制局官僚らからなる憲法問題調査委員会(委員長国務大臣松本烝治)を設置して、「憲法改正の必要があるかどうか学問的に調査する」という方針をとった。
 一方、政府の鈍い動きとは別に、憲法の改正を真摯に考えていた在野の日本人も少なからずいた。
 10月29日、高野岩三郎の呼びかけで「日本文化人連盟設立準備会」が設立された。高野は当時73歳、元東大教授で戦前は大原社会問題研究所で統計学の立場から貧困、失業等の社会問題の解決に取り組んできた。敗戦後、新しい日本文化の創造を掲げ、デモクラシーとヒューマニズムに基づく国家建設を訴えた。この日本文化人連盟設立準備会には憲法学者鈴木安蔵も出席していた。鈴木は「憲法改正を国民的運動たらしめなければならない、新憲法制定の運動をしよう」と高野から働きかけられ、「憲法研究会」が結成された。
 鈴木安蔵は当時41歳。京都大学在学中に治安維持法違反で退学、収監された経験から、国家の根本は憲法にあると考え、独学で明治憲法制定の歴史を研究する。その過程で大正デモクラシーを牽引した政治学者吉野作造の知遇を得、明治の自由民権運動家、植木枝盛(著書 民権自由論1880年)を知る。「国家は人民の自由を守るためにこそある。そのために憲法が必要だ」と主張した植木の憲法草案には、すでに主権在民思想が盛り込まれていた。
 カナダ人の近代史研究家ハーバート・ノーマンは戦前在日したことがあり、憲法史研究会で鈴木とは旧知の仲であった。カナダ政府からGHQに派遣されていた彼は、1945年9月、鈴木宅を来訪した。「根本的な国体の批判が日本民主主義化の前提ではないか。このままでは再び国家主義的風潮が強化される危険がある」との彼の言に、鈴木は憲法問題の根本的再検討の必要性を痛感した。
 「憲法研究会」には、高野、鈴木のほか、岩淵辰雄(51歳、政治評論家、戦時中、戦争の早期終結を工作し、憲兵に逮捕された)、室伏高信(53歳、政治評論家。戦後いち早く雑誌「新生」を発刊、大正時代はデモクラシーを掲げて論壇にデビューしたが、軍部批判をして戦時中執筆を禁止されていた)、馬場恒吾(70歳、言論界の重鎮、国際平和主義を掲げた。英字新聞記者出身。徹底した自由主義的評論で大正時代から有名だった。戦争中執筆の場を奪われていた)、 森戸辰男(56歳、社会政策学の研究者、戦前、失業や貧困を研究。言論弾圧により東大を追われ単身ドイツに渡る。第一次大戦後のインフレ失業の中、生存権を国家が保証すべきだとしていたワイマール憲法に注目した)、杉村孝次郎(64歳、文化人連盟に参加していた文芸評論家)が参加していた。
 11月5日の憲法研究会第1回会合から第3回会合までは憲法の根本原則が話され、計5回の会合がもたれた。
 1945年12月26日、鈴木がまとめた全58条からなる「憲法草案要綱」が発表された。国民主権や生存権規定などを盛りこんだ憲法草案要綱の内容にGHQのスタッフも注目し、完成度の高さはGHQを驚かせるものだった。
 一方、<学問的に調査していた>政府改正案の進行状況はどのようなものであったか。
 1946年2月1日、GHQに急かされていた松本試案の中身が<君主国>であることを毎日新聞がスクープした。
 2月3日、マッカーサーは日本の憲法改正に際して守るべき三原則(マッカーサー・ノート)~天皇は国家の最上位、国権の発動たる戦争廃止、封建制度の廃止~をホイットニー民政局長に示しGHQ草案作成を指示する。
 2月11日、11章92条からなるGHQ草案が完成。
 2月13日、ホイットニー民政局長等は外務大臣官邸で松本烝治、吉田茂に草案を提示し、受け入れないなら草案を直接国民に問うことになると迫った。GHQ草案を国民は受け入れるとの確信があった。
 3月6日、GHQ案に沿った「憲法改正草案要綱」が発表され、6月の帝国議会で審議される。衆議院、貴族院で反対したのは、共産党所属議員を含めたった8人のみであった。なお、憲法研究会の一員でもあった森戸辰男(衆議院議員)が生存権の追加を提案し、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の第25条が追加されたことは、現在の日本の生活困窮者を救う大きな拠り所になっていると言えよう。
 11月3日、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」を三大原則とする「日本国憲法」が公布された。
 ざっと見ても、以上のような過程をたどるのではあるが、戦前の知識人への弾圧も、戦争突入の決定も、全て国体としての天皇を冠した君主制の下で、一般国民から遠いところで国策を操る者がいて可能だったと考えられる。操る者の拠り所は「大日本帝国憲法」にあったからこそ、その「改正」が必要とされたのだ。
 明治民権運動から、大正デモクラシーに至る過程で、吉野作造、福田徳三、河上肇たちの先駆者が、主権在民や生存権などについて、多くの国民を啓蒙していた。往時の記憶が日本人に生き生きと残っていたからこそ、憲法改正の国会審議も順調に進み、国民も受け入れたのだと思う。戦前・戦中の弾圧を生き延びた先人が、どんな思いで現憲法をつくってきたのかに思いを馳せるとき、軽々しく変えられるものではないことが分かる。
 今では、『憲法には<国民も守る義務がある>と記載すべき』との国会議員がいるそうだ。憲法第99条をどう読んでいるのか、こういう議員には『あなたたち為政者側が守るべきものとして憲法があるのだ』、『日本国憲法は国民の自由・権利を保障するためにこそ作られてきたのだ』と、多くの国民が胸を張って言うべき時のような気がする。

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日本国憲法は、あれだけの犠牲を払った上で我々が獲得した世界の宝です。天皇から三権の長、国務大臣、議員に対して、国民の側から厳守を命令する性格のものです。勘違いする議員が実在すること自体、議員と議会の弱体化が進行していることの証左です。今は「攻め」て「守る」べきとき。単なる知識に終わらせずに行動を。分かるとは動くことです。

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