2013/06/04 Category : エッセイ サハリンの20年 数日前の朝、サハリンでスーパーマーケットが開店したとのニュース放映があった。随分とサハリンも変わったと思った。 初めてサハリンを訪ねた1992年当時の商店は、泥棒対策からか、商品の取り出しは売り手からのみ可能な構造の店が多かったし、靴などは店頭には片方しか出ていなかった。ソ連崩壊後間もないこともあって、街中の公衆電話は受話器が引きちぎられていた。土産には100円ライターでも、ボールペンでも喜ばれ、何もかもが足りなかった。車が止まると、バケツを持った10歳前後の子供達が5、6人駆け寄ってきて、洗車をしようとした。経済の混乱期、働かなければならない子供も多かったあの頃.... 沿道の市場(バザール)が賑わっていたので、活気があると思ったが、「働く場がないからうろついている」との説明に、己の無知を恥じた。たむろする若者がどうやって食べているかを通訳に聞くと、「泥棒をしている」と答えた。冗談かと思ったら、「あんな上等な靴は泥棒でもしないと買えない」と彼らの足下を指して真顔で言った。 道路の除雪予算が足りずパトカーも走れないから冬は泥棒が増えた。金持ちの葬式の翌日は、急に埋葬者が多くなった。貧乏人は墓場までの除雪ができず、誰にも知らせず家に死体を置いていたのだ、との説明を受けた。 日本語学科の学生通訳に他の視察団が1万円払っていた。1万円は教師の月給よりも高かった。私たちとは無関係の視察団だったが、大学を表敬訪問した際、副学長から「授業にならない」と抗議され、耳が痛かった。 現在、液化天然ガスの積み出し基地に変貌したプリゴロドノエは、打ち上げられた昆布が延々と連なる海岸であった(写真クリックで拡大)。アニワ湾に面したこの海岸に韓国系友人の数家族とピクニックに出かけたことがあった。泳いだあとの食事はサケの三平汁(ロシア語ではウハという)、魚の調達は、目の前で網を引き揚げる漁師からだった。渡樺の船中、無税で買った缶ビール1本がサケ1本に換わった。 「ルイーバ ダバイ」(お魚 ちょうだい)、ビキニ姿で奥さんたちが叫ぶ声と、舟から投げ返された魚の、水際にはねた光景が、まぶしい青空の記憶の中によみがえる。 経済成長は功ばかりではないが、今となっては、何もかも懐かしい思い出の20年となった。 サハリンの 打ち解け語る ホームステイ ドイツは嫌いの 声に驚く 教会が あるからオハに 住むという 静かな声に 深き眼差し 久方の オハの友との再会に 振り向くことなき 別れの不思議 オハの夏 道延々と薄紅の 手折り持て来る 君がその花 首保(も)たぬ 土くれの道越え来たる 今日が押し寄す ノグリキの宿 ベリー売る 子等は喜ぶ 黒糖に 戦後重ねて サハリンに居り 食べきれず ホテルに持ち込む シニッツェリ 最後の肴に 残り酒飲む 国境を 挟む日露の 慰霊碑を 花は変わらず 車窓過ぎゆく 直(す)ぐ高き 松と白樺 風光 ダーチャに 夏の 駆け抜けていく 明日帰る 帰る向こうと 今のここ シャシリクかじり ダーチャに思う 夕暮れの ダーチャに哀し バイアンの 帰り難くて 息を吸い込む サハリンの 木イチゴの実の 大きくて 金あることの 何の豊かさ [3回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword