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碧濤のひとりごと

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社会還元

 産業革命以降の技術革新で、人類の生活レベルは格段に底上げしたが、それと引き換えに、環境汚染は現在、地球規模といわれる段階に進んでいる。
 グローバル化に伴う弊害は、途上国での富の偏在を促進し、資源争奪抗争をエスカレートさせ、平穏を保っていた部族間、あるいは途上国間を戦争に駆り立て、多くの難民を産み出してもいる。
 環境汚染も資源争奪戦争もグルーバル化が助長している側面は大きいはずだが、一度手にした生活レベルの魔力に、弊害は矮小化され、先進国の多くの人は何事もないかのように日々を過ごして見える。しかし、このままでは、事態はさらに悪化するとの危機感を持つ人々も増えていて、そこに未来へのかすかな希望がつながっている。
 暮らしが便利になったといっても、底辺層の苦しみが除かれたわけではない。100年前の先進国、例えば英国においては、人口の2%を占める金持ち層が、国の富の72%を有していたというが、今や格差は世界中に広がって、世界人口の1%が個人総資産の40%を所有しているという。
 それでも、キリスト教社会には、大金持ちは社会に富の一部(と言っても相当な額)を寄付する社会貢献への道徳観念が根付いていて、それなりに社会還元する伝統は今に受け継がれているように思える。
 一方、我が国はどうか。暴力団への融資を知っていて知らんぷりを決め込んだ、みずほ銀行の役員達の報酬に驚いた。社長ともなれば年間報酬額は1億円を超えるという。このような金持ち連中は、個人として、どんな社会貢献、社会還元をしているのだろうか、と思う。直接審査する立場にない信販会社を通じた融資での事件だから「半年無報酬」の責任の取り方で妥当と判断したのだろうが、負の波及効果は庶民の不祥事とは比べものにならない。報酬は社会的責任の大きさと無関係ではないはずだ。「半年無報酬」程度の責任の取り方で済むはずはない。「隠すべき事案が残っているから辞めないのではないか」と勘ぐりたくもなる。
 全部とは言わないが、東電やみずほ役員のような巨大企業のトップに居座る、このような人たちが、強欲に惹かれてか、日本を貶(おとし)めている。
 グルーバル社会の激変に翻弄される庶民は多いが、それでも多くはまだ健全な精神の持ち主である。海外で活躍し、世界から尊敬を受ける日本人も多い。昔の金持ちは神社仏閣の建設資金などを出したり、優秀な人材を書生として面倒を見たりもした。しかし、この100年、日本巨大企業のトップの価値観は、確実に変貌し日本的道義感覚も奪い去られていくかのようだ。 
 日本を牽引する企業役員たちに、「個人として、大震災被災者に、どんな応援をしているのですか」、「収入はどれくらい社会還元していますか」と、下衆の勘ぐりを承知で聞いてみたい気がする。

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土下座

 機械には誤差、故障があり、人には間違いが付きものだ。どんなに注意しても、想定外の事態は起こる。だから、受容できる程度の被害なら、加害側の事情を少しは理解しようと理性が働くし、それが健全な常識人社会だろうとも思う。しかし、最近は、その常識が通じない者による過剰行動が多くなっている。反省など期待できないから、たしなめる人もほとんどいない。冷笑が精一杯の常識人社会と思っていたら、匿名性が確保されるインターネット上ではすさまじい増幅反応が起こることを思い知った。
 つい先日、札幌で、土下座を強要したとして43才の女性が逮捕された。「買ったタオルに穴が開いていた」と、衣料品店員にクレームを付けたのが発端であった。強要したとされる土下座の写真をツイッターに流し、自宅に謝罪に来させる念書まで書かせていたという。クレーマーへの反論や批判続出は当然として、投稿した写真と、過去の投稿記事から、その女性クレーマーを調べる者が次々に現れ、ついには実名、住所、家族構成、子どもの写真までネットに流される、常識人社会の範疇を越える事態になった。
 たまたまの不良品購入への腹立ちが、まさかの逮捕になり、同情を買うはずだったネット社会からは、逆に過大なしっぺ返し、ドラマ半沢直樹風に言えば<100倍返し>のような制裁を受けるに至った。
 NHKの<クローズアップ現代>で、この土下座事件を取り上げていた。土下座そのものが放映されたのは1996年3月のミドリ十字がはじめてのケースだったという。その映像の、打ち合わせでもしてきたかのような、皆が土下座するシーンを、当時、何とも奇異に感じながら見た記憶がよみがえった。
 あのころから、土下座は社会現象として、加害者側の誠意を見せる最大の儀式と化していったのかもしれない。今や、組織的土下座は相手に屈服するように演じる懐柔策とみえるし、逆に、土下座の強要は、相手の人格を全面否定する示威行動として被害者側の権利になった感がある。
 今から50年も前のこと、まだ小学生だった妹が、夕食時に、シジミかアサリかの佃煮の中に小さなクモを見つけて悲鳴を上げたことがあった。色も佃煮と同じだったから、製造過程で紛れ込んだものと思われた。購入したデパートに父がすぐに電話を掛けた。夜も8時を過ぎたころ、製造、販売の複数の責任者が別の種類の佃煮と、お詫びの品を携えて来宅した。ていねいな謝罪で、売った側の誠意も十分伝わっていたし、買った側の父も、にこやかに対応していた記憶がある。もちろん土下座を求めることもなかった。
 土下座への私のイメージは、自分の誠意の極みとしての行動であって、あらかじめ予定されているものではないし、人に強要するものでも、されるものでもない。私には、加害者にとっても、被害者にとっても、予定された土下座、強制した土下座は何も産み出さない不毛な行為に見える。それよりも、土下座社会の背後には、責任所在を問えない社会システムの定着という、不信社会を増長する、根深い現代社会の欠陥構造が横たわっているように思えてならない。

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想像力の欠如

 異性の友人や恋人がいない若者が全国一高い比率だというある市で、男性には売れっ子ホストを講師に、女性には美魔女を講師に、出会いの演出からデートへの誘いまでを指南する講習会が開かれるそうだ。民間が金をとって開催するならともかく、行政が主催するのは何となく心に引っかかるものがあった。
 無料故、参加者の誘引効果はあるかもしれないが、出会いを真面目に考えている人たちが、そもそも「真面目に参加」するのか、刹那的な気を紛らわすだけの出会いに税金をつぎ込む結果とならないのかと思った。
 肉体的障害や貧困の中でも、こうして異性に出会えたとか、退勤後のボランティア活動が思いがけない出逢いをつくったというような経験者を講師に加えるなど、主催者はいろいろ考えるのが普通だろう。今回の企画の途上どんな議論が交わされたかを議会も質すべき気がする。当然そうしての結果だと答えられれば私の発想が古いだけだが、少し似たような講演会体験があったからこういう施策は気に掛かる。
 むかし、観光振興に悩むある市で、観光関連の人たちを一堂に会し、大手航空会社の客室乗務員を講師に、おもてなしの心を語る講演会が実施された。バス会社や土産屋、ホテルや民宿などに働く人たちが集められ、<講演を聞いて、はい、終わり>の講演会だった。
 こんな講演会に何の効果があるのかと思った。参加者をバラバラに組み替えグループごとに意見交換会も併設した講習会にするとか、講演会の後は名刺交換時間を設けるとか、同じ金を使うなら、施策の効果が最大になるように知恵を絞るのが行政だろう、と思ったものだ。私には、<観光振興に悩んでいない観光課>を公言しているような施策に映った。
 想像力の欠如は、行政内のことばかりではない。最近、北海道に招かれたニュージーランドの先住民族マオリの女性が、口の入れ墨を理由に温泉への入浴を拒否された。「民族の伝統的な文化に基づいたもので反社会的な入れ墨ではない」と抗議したが、温泉施設側は「入れ墨は威圧感を感じる客が多く、お断りをしている」と説明したという。
 偏見を持つ人たちには、「国際交流の大事なお客様です。反社会的な入れ墨には当たりません」と説明すれば事足りる話だ。元々、入れ墨入浴を断ることにした理由は何であったのか。知っていながらの対応なら<事なかれ主義>だ。事なかれ主義が住みにくい社会を増長する。毅然と対応できない想像力の欠如を思う。

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手を掛ける

 義父が遺した果樹畑に桃の木が一本ある。 昨年、雑草畑 と化したその中に足を踏み入れると、卵大の実が一個だけ残っていた。恐る恐るかじってみると十分に甘みがあった。足下には、虫や風雨に朽ちた実が幾つも落ちていた。
 今年の春、気になって果樹畑を見にいくと、既に、指先大の実が付いていた。芽欠き作業ならぬ「実欠き」作業となっては、どの実を残すかで心が痛む。「こんなに実を残しては大きくならないだろう」と思いつつも、「あわよくば」の下心もあって、なかなか取り除くことができないからだ。果樹の根元の雑草を直径4mほどの円形状にはぎ取り、甘くなることを期して鶏糞を蒔いた。月が替わって芽欠き数を若干増やし、袋掛けを終えた。購入した果樹袋の残数から150個ほどの実の付いているのが分かった。
 9月に入り、直径5、6cm大の実が収穫できた。いくつか食べてみると美味しい桃もあるが、袋を外して少し待てば甘くなっていたろう「かろうじて桃」という類もある。袋の中で腐ったものや、袋ごと地上に落ちてしまったものもあったが、100個以上が虫も付かず成長していた。月に3度ほどしか通えない畑ではあるが<手を掛ける>重要さを今更ながら認識させられた。
 専門農家の手に掛かれば、もっと多くが選別、芽欠きされ、選ばれた個体だけが、甘く大きな実を付けるだろう。それもまた<手を掛ける>ことではある。しかし、小さくて、少々不格好で、色むらがあっても、芳醇な香りと甘みを持つ個体は、売れる商品とはならないが、桃の本質価値に遜色はないはずだ。
 桃の個体を「人」としてみれば、<手を掛ける>という行為は「教育」や「指導」に当たるといえるかもしれない。
 では、多くの人を集め、体格や性格、頭脳を比較して選別すれば、一流と言われる精鋭たちを効率よく輩出することができ「めでたし、めでたし」で終わるのか。否。「教育」や「指導」という行為は、時に、芽欠きされ、あるいは、成長途中で落ちこぼれ、桃になれなかった者の行く先に、目を遣るような心配りが必要とされる。その目があればこそ、再び逞しい精鋭へと、復活の芽がまた生まれよう。人が人たる所以はそんなところにあるはずだ。
 昨今は、スポーツ界、教育界は言うに及ばず、各界の指導者たるべき立場の人が、人のものに<手を掛け>たり、人を<手に掛け>たりする事案が増えている気がする。
 そんな中、オリンピックの東京開催が決まり、落ち込んだ経済再生の起爆剤として、衆目の期待が集まっているように見える。
 半世紀前の東京オリンピックは、日本の力強い成長を信頼して、極端に言えば、金と施設という養分を与えるだけで良かった。今、半死半生の半倒木のごとき日本に息を吹き込むには、同じ手法でやれば良いということにはならないし、福島原発事故後の東北復興に対する国民の目をそらすことはできない。オリンピックの余録として復興資金を上乗せするような浮かれた発想ではなく、相乗施策的視点から考えていくべきであろう。
 その基底に、芽欠き、枝打ち、除草、除虫、追肥、水やりといった<手を掛ける>作業にも似た、血の通う施策がなければ、オリンピックの成果も期待された実を結ぶことはないだろう。
 「日本を、取り戻す」と言うが、結局は何に<手を掛ける>のか、に尽きる。その血の通った施策を国民に示していかない限り、今までのスローガン政治からは脱却はできないと、へそ曲がりには思えるのである。

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民主主義社会再考

 「権力、利権、名声」を人は求める。いつの時代も、どんな社会体制でも絶えることはない。そして、これを我がものとした一部の人たちによって、これからも社会の趨勢は決められていくのだろう。
 だから、民主主義社会というのは、「権力、利権、名声」を消し去る社会なのではなく、それを持った一部の人たちを「制御」する社会なのだと思う。その民主主義社会が、今、危機に晒されている。
 私の時間感覚では、つい最近まで、人は手足を動かし、額に汗して働くことで糧を得ていた。少し余力のある人だけが、年に1、2回の配当を楽しみに、ささやかな株式投資や投資信託に夢を託していた。
 しかし、今は、キーボードを叩き、1秒単位で巨額の資金が動きまわるマネーゲームに、機関投資家はもちろん、余裕のない個人まで参加が許されて、「働く」という言葉の意味さえ変わってしまったように思える。そして実態と離れた憶測や言動によってさえ、瞬時に巨額の金が動き、企業が浮沈し、平穏な個人生活が天国と地獄を行き来するほどに、虚構の世界に左右される社会に変貌したように見える。
 雇用現場もIT化の進行で、プログラマーなど技術者と経営者がいれば仕事が成り立つという、外の点(技術者)と、中心点(経営者)だけのネット型雇用が進行した。労働環境全体で見れば、相対的に庶務や経理など旧来のピラミッド型雇用にあった多用な企業人材が吐き出され、結果、ワーキングプアーや非正規雇用の溢れる労働環境になっていったように見える。他の要素も勿論あっての現在ではあるが、すでに雇用者の35%は非正規雇用者、非正規雇用者の74%は年収二百万円以下という社会になっている。
 いま、グローバル社会の環境の下で競争力を高める必要から、更に解雇が容易な体制を模索する動きも出ている。「限定正社員」という、非正規雇用を救うように聞こえて、企業側にのみ与すると思える制度はその一例だ。グローバル化が悪いのではないが、ブラック企業を更に助長するような安易な企業内対策のみで済まそうとする権力側の怠慢と責任回避が感じられる。
 格差の拡大は「どうせ変わらない社会だから、どうにでもなれ」とばかりの、人心を荒廃させていく社会に直結する。結果、投票率の低下を招き、底辺の人たちは、自らの首を更に絞めるように事態を悪化させる。
 憲法擁護を国民の7割が支持するのに、憲法改正を言う人たちが政権を担うのも、その結果と言えなくもない。戦後も70年近く経ち、時代にそぐわない面が出てきたとしても、戦争の犠牲になった人たちの生命の上につくられた「平和憲法」の価値が色あせることはないと、私は思う。改憲派が憲法改正が必要なほど状況が変わっていると主張しても、選挙制度や区割り、定数見直しなど、民主主義の根幹である、公正な国民参加を促す仕組みを整備する方が先であるとする人が多いはずだ。
 閣僚の靖国神社参拝には隣国蔑視と大政翼賛会的体制への復帰願望が感じられる。かつて、世界の状況を客観的に知らされ得なかった国民にとって、「お国のために死んだ」とは、「お国のためにと信じ込まされて死んだ」と言い換えるべきだ。「信じ込ませた人」と、「信じ込まされた人」を合祀できるのは宗教法人だから許されるのであって、本来、国としてとるべき態度は「信じ込まされた人」のための慰霊の場を別に設けることだ。中韓からの抗議を受ける以前の話だと思う。
 マスコミもレベルが低下しているのか、大切な反論を伝える時間帯がだんだん少なくなって、権力側のだましの論法が少しずつ国民を席巻している気がする。
 議論には賛成も反対もあるべきだが、判断ができるだけの十分な情報を、為政者も、マスコミも一般庶民に伝えていない。その努力をしない限り、日本の明日は遠い。それでは、あるべき民主主義社会の復権に向けて誰が主体になるべきか。少なくとも、民主主義の恩恵?を享受してきた団塊世代には、社会的活動に積極的に関わり、そろそろ受けた恩を社会に返しておくべきではないのですか、と言いたい。

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