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碧濤のひとりごと

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民主主義社会再考

 「権力、利権、名声」を人は求める。いつの時代も、どんな社会体制でも絶えることはない。そして、これを我がものとした一部の人たちによって、これからも社会の趨勢は決められていくのだろう。
 だから、民主主義社会というのは、「権力、利権、名声」を消し去る社会なのではなく、それを持った一部の人たちを「制御」する社会なのだと思う。その民主主義社会が、今、危機に晒されている。
 私の時間感覚では、つい最近まで、人は手足を動かし、額に汗して働くことで糧を得ていた。少し余力のある人だけが、年に1、2回の配当を楽しみに、ささやかな株式投資や投資信託に夢を託していた。
 しかし、今は、キーボードを叩き、1秒単位で巨額の資金が動きまわるマネーゲームに、機関投資家はもちろん、余裕のない個人まで参加が許されて、「働く」という言葉の意味さえ変わってしまったように思える。そして実態と離れた憶測や言動によってさえ、瞬時に巨額の金が動き、企業が浮沈し、平穏な個人生活が天国と地獄を行き来するほどに、虚構の世界に左右される社会に変貌したように見える。
 雇用現場もIT化の進行で、プログラマーなど技術者と経営者がいれば仕事が成り立つという、外の点(技術者)と、中心点(経営者)だけのネット型雇用が進行した。労働環境全体で見れば、相対的に庶務や経理など旧来のピラミッド型雇用にあった多用な企業人材が吐き出され、結果、ワーキングプアーや非正規雇用の溢れる労働環境になっていったように見える。他の要素も勿論あっての現在ではあるが、すでに雇用者の35%は非正規雇用者、非正規雇用者の74%は年収二百万円以下という社会になっている。
 いま、グローバル社会の環境の下で競争力を高める必要から、更に解雇が容易な体制を模索する動きも出ている。「限定正社員」という、非正規雇用を救うように聞こえて、企業側にのみ与すると思える制度はその一例だ。グローバル化が悪いのではないが、ブラック企業を更に助長するような安易な企業内対策のみで済まそうとする権力側の怠慢と責任回避が感じられる。
 格差の拡大は「どうせ変わらない社会だから、どうにでもなれ」とばかりの、人心を荒廃させていく社会に直結する。結果、投票率の低下を招き、底辺の人たちは、自らの首を更に絞めるように事態を悪化させる。
 憲法擁護を国民の7割が支持するのに、憲法改正を言う人たちが政権を担うのも、その結果と言えなくもない。戦後も70年近く経ち、時代にそぐわない面が出てきたとしても、戦争の犠牲になった人たちの生命の上につくられた「平和憲法」の価値が色あせることはないと、私は思う。改憲派が憲法改正が必要なほど状況が変わっていると主張しても、選挙制度や区割り、定数見直しなど、民主主義の根幹である、公正な国民参加を促す仕組みを整備する方が先であるとする人が多いはずだ。
 閣僚の靖国神社参拝には隣国蔑視と大政翼賛会的体制への復帰願望が感じられる。かつて、世界の状況を客観的に知らされ得なかった国民にとって、「お国のために死んだ」とは、「お国のためにと信じ込まされて死んだ」と言い換えるべきだ。「信じ込ませた人」と、「信じ込まされた人」を合祀できるのは宗教法人だから許されるのであって、本来、国としてとるべき態度は「信じ込まされた人」のための慰霊の場を別に設けることだ。中韓からの抗議を受ける以前の話だと思う。
 マスコミもレベルが低下しているのか、大切な反論を伝える時間帯がだんだん少なくなって、権力側のだましの論法が少しずつ国民を席巻している気がする。
 議論には賛成も反対もあるべきだが、判断ができるだけの十分な情報を、為政者も、マスコミも一般庶民に伝えていない。その努力をしない限り、日本の明日は遠い。それでは、あるべき民主主義社会の復権に向けて誰が主体になるべきか。少なくとも、民主主義の恩恵?を享受してきた団塊世代には、社会的活動に積極的に関わり、そろそろ受けた恩を社会に返しておくべきではないのですか、と言いたい。

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