2013/09/10 Category : エッセイ 手を掛ける 義父が遺した果樹畑に桃の木が一本ある。 昨年、雑草畑 と化したその中に足を踏み入れると、卵大の実が一個だけ残っていた。恐る恐るかじってみると十分に甘みがあった。足下には、虫や風雨に朽ちた実が幾つも落ちていた。 今年の春、気になって果樹畑を見にいくと、既に、指先大の実が付いていた。芽欠き作業ならぬ「実欠き」作業となっては、どの実を残すかで心が痛む。「こんなに実を残しては大きくならないだろう」と思いつつも、「あわよくば」の下心もあって、なかなか取り除くことができないからだ。果樹の根元の雑草を直径4mほどの円形状にはぎ取り、甘くなることを期して鶏糞を蒔いた。月が替わって芽欠き数を若干増やし、袋掛けを終えた。購入した果樹袋の残数から150個ほどの実の付いているのが分かった。 9月に入り、直径5、6cm大の実が収穫できた。いくつか食べてみると美味しい桃もあるが、袋を外して少し待てば甘くなっていたろう「かろうじて桃」という類もある。袋の中で腐ったものや、袋ごと地上に落ちてしまったものもあったが、100個以上が虫も付かず成長していた。月に3度ほどしか通えない畑ではあるが<手を掛ける>重要さを今更ながら認識させられた。 専門農家の手に掛かれば、もっと多くが選別、芽欠きされ、選ばれた個体だけが、甘く大きな実を付けるだろう。それもまた<手を掛ける>ことではある。しかし、小さくて、少々不格好で、色むらがあっても、芳醇な香りと甘みを持つ個体は、売れる商品とはならないが、桃の本質価値に遜色はないはずだ。 桃の個体を「人」としてみれば、<手を掛ける>という行為は「教育」や「指導」に当たるといえるかもしれない。 では、多くの人を集め、体格や性格、頭脳を比較して選別すれば、一流と言われる精鋭たちを効率よく輩出することができ「めでたし、めでたし」で終わるのか。否。「教育」や「指導」という行為は、時に、芽欠きされ、あるいは、成長途中で落ちこぼれ、桃になれなかった者の行く先に、目を遣るような心配りが必要とされる。その目があればこそ、再び逞しい精鋭へと、復活の芽がまた生まれよう。人が人たる所以はそんなところにあるはずだ。 昨今は、スポーツ界、教育界は言うに及ばず、各界の指導者たるべき立場の人が、人のものに<手を掛け>たり、人を<手に掛け>たりする事案が増えている気がする。 そんな中、オリンピックの東京開催が決まり、落ち込んだ経済再生の起爆剤として、衆目の期待が集まっているように見える。 半世紀前の東京オリンピックは、日本の力強い成長を信頼して、極端に言えば、金と施設という養分を与えるだけで良かった。今、半死半生の半倒木のごとき日本に息を吹き込むには、同じ手法でやれば良いということにはならないし、福島原発事故後の東北復興に対する国民の目をそらすことはできない。オリンピックの余録として復興資金を上乗せするような浮かれた発想ではなく、相乗施策的視点から考えていくべきであろう。 その基底に、芽欠き、枝打ち、除草、除虫、追肥、水やりといった<手を掛ける>作業にも似た、血の通う施策がなければ、オリンピックの成果も期待された実を結ぶことはないだろう。 「日本を、取り戻す」と言うが、結局は何に<手を掛ける>のか、に尽きる。その血の通った施策を国民に示していかない限り、今までのスローガン政治からは脱却はできないと、へそ曲がりには思えるのである。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword