2013/10/12 Category : エッセイ 土下座 機械には誤差、故障があり、人には間違いが付きものだ。どんなに注意しても、想定外の事態は起こる。だから、受容できる程度の被害なら、加害側の事情を少しは理解しようと理性が働くし、それが健全な常識人社会だろうとも思う。しかし、最近は、その常識が通じない者による過剰行動が多くなっている。反省など期待できないから、たしなめる人もほとんどいない。冷笑が精一杯の常識人社会と思っていたら、匿名性が確保されるインターネット上ではすさまじい増幅反応が起こることを思い知った。 つい先日、札幌で、土下座を強要したとして43才の女性が逮捕された。「買ったタオルに穴が開いていた」と、衣料品店員にクレームを付けたのが発端であった。強要したとされる土下座の写真をツイッターに流し、自宅に謝罪に来させる念書まで書かせていたという。クレーマーへの反論や批判続出は当然として、投稿した写真と、過去の投稿記事から、その女性クレーマーを調べる者が次々に現れ、ついには実名、住所、家族構成、子どもの写真までネットに流される、常識人社会の範疇を越える事態になった。 たまたまの不良品購入への腹立ちが、まさかの逮捕になり、同情を買うはずだったネット社会からは、逆に過大なしっぺ返し、ドラマ半沢直樹風に言えば<100倍返し>のような制裁を受けるに至った。 NHKの<クローズアップ現代>で、この土下座事件を取り上げていた。土下座そのものが放映されたのは1996年3月のミドリ十字がはじめてのケースだったという。その映像の、打ち合わせでもしてきたかのような、皆が土下座するシーンを、当時、何とも奇異に感じながら見た記憶がよみがえった。 あのころから、土下座は社会現象として、加害者側の誠意を見せる最大の儀式と化していったのかもしれない。今や、組織的土下座は相手に屈服するように演じる懐柔策とみえるし、逆に、土下座の強要は、相手の人格を全面否定する示威行動として被害者側の権利になった感がある。 今から50年も前のこと、まだ小学生だった妹が、夕食時に、シジミかアサリかの佃煮の中に小さなクモを見つけて悲鳴を上げたことがあった。色も佃煮と同じだったから、製造過程で紛れ込んだものと思われた。購入したデパートに父がすぐに電話を掛けた。夜も8時を過ぎたころ、製造、販売の複数の責任者が別の種類の佃煮と、お詫びの品を携えて来宅した。ていねいな謝罪で、売った側の誠意も十分伝わっていたし、買った側の父も、にこやかに対応していた記憶がある。もちろん土下座を求めることもなかった。 土下座への私のイメージは、自分の誠意の極みとしての行動であって、あらかじめ予定されているものではないし、人に強要するものでも、されるものでもない。私には、加害者にとっても、被害者にとっても、予定された土下座、強制した土下座は何も産み出さない不毛な行為に見える。それよりも、土下座社会の背後には、責任所在を問えない社会システムの定着という、不信社会を増長する、根深い現代社会の欠陥構造が横たわっているように思えてならない。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword