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碧濤のひとりごと

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指導指針

 夕張に設置されるという「安定型最終処分場」の説明会に出席した。設置場所が、夕張川の源流に近いことから、飲料水、農業用水を夕張に頼る下流の長沼町などからの参加もあり、会場は100人近い市民の熱気に包まれた。
 産業廃棄物最終処分場には、安定型、管理型、遮断型があるが、安定型は、簡単に言ってしまえば“無害ゴミ”だけを対象にした施設である。ところが、受入業者が「万全を期す」と言っても、故意、偶然を問わず、入り込んだ有害物による地下水汚染などを引き起こす事例が全国に絶えない。日弁連では、安定型処分場の新規許可をしないよう求める意見書を国に提出しているが、国は経費のかからない“安定型”を“規制の強化”だけで対応し、不許可とするには至っていない。
 今回の処分場計画の根底にはメロン農家のビニールハウスがある。これまで廃ビニールは三笠や勇払の処理場へ運んでいたが、三笠は満杯となり、運搬経費の高騰に悩む地元関係者が、市内に最終処分場を望んだという。許可になればもちろん、持ち込まれる廃棄物は廃ビニールにとどまらず、持込区域も市外に広がる。
 質問は許可権限のある北海道に集中した。「業者が倒産の時に、汚染地下水の処理は誰が行うか」、「下流域への補償は誰がしてくれるのか」、「情報公開の時期が遅すぎないか」、「審査する外部委員とは誰か」・・・。
 道庁側の回答に時々出る「指導指針に基づいて処理している」という言葉が気になった。それは担当者の回答ではないか。今回の説明会に出席したのは管理職員である。「指導指針」そのものの適正さを問う質問はなかったが、質問者には、指針にも、指針に基づく対応にも、不満があるのは明らかだった。
 安定型処分場の設置を法律が認めている以上、十分慎重な審査は当然である。しかし、水源に近い施設という重大さを考えると、数万人の下流域住民に対しても、十分知らしめる時間を配分することも、また当然ではないのか。
 許可申請前には地元市町村、地域住民に説明することになっているが、下流の自治体への申請前の説明はなかったようだし、説明対象の地域住民とは設置予定箇所から概ね500mの範囲に住む人たちというから、万一の事故の、影響範囲の重大さから考えると妥当とは思えない。処分業者の資格として過去3年の法人税納付証明書類を添付させるのはいいとしても、万一の対応ができる資産の想定も確認もないというのは、「滅多に火事がないから消防車まではいらない」という議論と同じに見える。
 道州制も地方分権も、そこに住む人を中心に置くための機構再編に外ならないはずだ。指導指針なるマニュアルの妥当性を検証するシステムも内包する行政であってこそ、道州制も地方分権も機能するのではないか。マニュアルを運用する側の人材配置はさらに重要である。こればかりは蚊帳の外かと諦めてきたが、会場の熱気に触れているうちに、市民主権に基礎を置く情報公開への流れがそれを補うと思えてきた。

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庶民感覚

 久しぶりに学生時代の友人と飲んだ。「お前は俺より晩婚タイプだな」と私を決めつけていた彼だが、未だにというか、結局というか、彼の方はずっと独り者のままだった。「結婚するとは言っていない」と言い訳している間に年を取り、「身の回りの整理を始めている」と言い出した。
 悠々自適、毎日30kmを“散歩”していると聞いていたので健康な後半人生を保っていると思っていたが、最近、運転中に、『心房細動』とかで平衡感覚を失い、軽い衝突事故を起こしたり、幼い頃のぜん息もぶり返しているのだと聞き、互いの年齢と来し方を思った。
 彼はもともと物欲の薄い人間で、その上、世の中のスピードに合わせることもないから、社会生活においては、よく言えばマイペース、悪く言えば頑迷な人間に見られたのではないかと思う。だから5年前に会社を辞めたと聞いた時も、そろそろ居づらくなったのかな、と思っていた。しかし今回、問わず語りの酒談義で、「何とか暮らしていける程度の蓄えはあるし、自分の給料で若い者なら二人以上は雇える」との退職動機を聞いて、封の開かない給料袋が部屋の片隅から出てくるような昔の彼の暮らしを知っているだけに、会社から体よくリストラされた訳でもなかったのだとうれしく思った。
 ゆったりペースの語り口はいつも通りだったが、ひときわ感情がこもっていたのが、庶民感覚から離れた今の政治だった。人と群れることが苦痛だから、社会的不公正に共同で闘うなどは苦手な彼であるが、各種の社会的活動に対し、庶民感覚としての寄付はしていると言う。
 機能しない政治、浄化能力のない行政、貧富の差を助長するような雇用形態・・・。人に格差をつけるようなこんな社会になってしまったのはなぜか、と嘆く彼に、最近勉強会で討論したばかりの、市民権利としての信託解除権の有効活用などを話した。勉強しているテキストを紹介すると、酔った彼が手帳を取り出し書き留めた。政治に全く無関心だった庶民層が、無関心でいられなくなっているのが今なのだろう。
 崩壊夕張の再建に立ち上がった市民活動のリーダーの一人も、全く政治的関心は持たなかったと自認する料理好きの主婦である。庶民から市民としての脱皮社会を強調するのではなく、逆説的ではあるが、庶民が庶民でいられる社会が健全なのだと思う。

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自治とは何か

 役場職員が働き出せば、町民も動き出す。合併をしない宣言で一躍有名になった福島県矢祭町。町民悲願の図書館も、国に頼らず自立(自律)の道を選んだ役場に金はなかった。役場職員と町民との会議から生み出されたアイデアは、「古い武道館を改装し、運営は町民が行い、本は全国からの寄贈を募る」というものだった。他の自治体からの「そんなのは図書館とは言わない」、「送料も寄贈者持ちでは本が集まるわけがない」との中傷の中で、45万冊の本が集まった。新設なら建設費に10億円、図書購入に3億円は必要と試算していたが、武道館の改装費1億円のみで完成し「もったいない図書館」と名付けられた。  図書館はまちづくり、人づくりの一環だろう。検討段階から町民が参加し、既に「図書館づくり」は始まっている。利用され、喜ばれ、大切にされるための「仕掛け」と、図書館という「施設・設備」は「ものづくり」の表裏である。いま、日本のハコモノといわれる施設整備には、この“仕掛け”があまりにも不足している。「何のための図書館ですか」と、矢祭町の対応を非難した自治体に聞いてみたい気がするのは私だけではあるまい。 人口7千人のこの町には自治の原点が凝縮している。役場職員自宅の役場化、年中無休の窓口業務、教育長や助役も輪番に組み込まれているトイレ掃除。それを目の当たりにするからこそ、町民だって動き出すのだ。  その牽引役だった前町長の根本良一さんをお招きしての講演会&公開討論会を夕張で開催した。市議会議員に来てほしいために個人ごとに案内も送ったが、タイトル(議員の役割と市民の責務)のせいか、参加は2人の市議にとどまった。見落としそうな新聞案内と平日昼間の開催だったから30人も来ればよいかと会場を設営したが、周辺自治体議員の参加も多く、夕張市民30人を含め、会場は80人の活発な議論の場となった。  “本物”の人の言葉は魂を揺すぶるものだ。以下、心に残る根本氏の言葉である。もちろん書き漏らしも、書き損じもあろう。 「薄い水を合わせても濃い水にはならない。合併に利益はなかった」「夕張問題は市役所の問題であり、市議会と市長の責任だ。職員にも市民にも責任を負わすべきではないと思う」「議員は家業(稼業)ではない。専業の議員は良くない」「税金を払い、治安を守ってくれさえすれば市民として合格だ」「町長として住民のためだけを考えた。少しでも邪(よこしま)な考えがあれば、住民への背信行為だ」「職員を木に登らせれば、住民も役場への見方を変え、手伝い出す」「観光で飯を食おうというのは怠け者の発想だ。産業でも農業でもつくることが地域づくりの原点だ」「儲けなくてもいい商売は易しい」「町のためになることかどうかで考えれば、議員日当制も、夜の議会開催も、当然の結論だった」「勉強のための本代に政務調査費を使うべきではない。それは自費だ」「余計な摩擦を避けるために、合併反対と言わずに、合併しないと言うことにした。マスコミを使うことも意識した」「情報公開文書を黒塗りすると人が来るものだ。矢祭の文書に黒く塗ったものはない」

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潜在下の世界

 先日、ハワイ在住版画家で環境活動家でもある小田まゆみさんのトークショーがあった。トークショーの話題提供者の中に、脳障害女児を持つMさんがいた。彼女は長男の添い寝をしている時「次の子どもは障害児だがそれでも産むか」という男の声をはっきり聴き、実在感のある気配が恐ろしくて、目を開けることも返事をすることもできなかった、と話しはじめた。不思議な体験であり記録として書き残そうかと思ったが、“現実”になるのが怖く止めたという。忙しい暮らしの中でそんな体験のあったこともすっかり忘れて日は過ぎ、女児出産後1年を経過して、診察を受けた医者から障害児と宣告された。嘆き悲しむ日々の中に、あの奇妙な体験を忽然と思い出し、それをきっかけにどん底のトンネルを抜け出たという。 彼女の話を聞きながら、人の能力の不思議を思った。昔、比叡山の「千日回峰行」を紹介するテレビで、天台宗大阿闍梨となった酒井雄哉老師が、「線香の灰が崩れ落ちる時の“ゴトッ”と言う音が聞こえる」と修行途上の出来事を語ったシーンが印象に残る。昨年だったか、上空から見たままの都市の風景を、まるで脳に写った映像を再現するように、細密に紙に描いていく自閉症の人がテレビ放映されたことがあった。一芸に秀でた人の逸話には常人の想像を越えるこの種の話は多い。
 Mさんは「私は信仰に熱心なわけでもなく、それまで神秘的な体験をしたこともない普通の人間です」と話されていたが、私は信仰とは別の観点から『宿った子どもの異常に潜在下の母性が気づき、天の言葉として顕在化させたのだろう』と常人なりの理解をした。
 普段は意識しない潜在下の「我」は、知っていると思いこんでいる「自分」というものの何十倍も広い世界なのではなかろうか。

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足利事件に学ぶ

 人は間違いを犯す。 1990年に足利市で起きた女児殺害事件、いわゆる「足利事件」は、DNA鑑定を有力な根拠に、菅家さんを殺人犯とし、2000年に無期懲役刑が確定した。DNA鑑定は、90年当時は、千人から一人を特定する位の精度しかなかったが、03年には1千万人に一人、現在では、地球上の一人を特定できるまでになっているという。02年にはDNA不一致を新証拠に菅家さんは再審請求をしたが、08年宇都宮地裁(池本寿美子裁判長)は、被告側証拠を「本人のものと特定できない」として認めず、独自にDNA再鑑定をすることもなく、再審請求を棄却した。誤っているおそれの大きい旧DNA鑑定を、誤るはずのない精度の新DNA鑑定に優先させたのである。
 即時抗告を受けた東京高裁の“職権”で、ようやく再鑑定を実施し、女児付着のDNAは別人のものと“当然”認められ、昨日6月4日、17年ぶりに菅家さんは釈放された。
 裁判所とは、客観的な事実を審理してより間違いのないように公平に見る場所だ。低い証拠能力しか持たないことが明らかな昔の科学データに固執した宇都宮地裁の判断の背後に、国家権力への自己呪縛さえ感じる。最後のより所としての裁判所の長に自己保身があってはならない。
 職権という形でしか、間違いを訂正できないのだとしたら、逆に言うと個人の裁量でどうにでもなるのなら、法治国家とは言えない。権威という名の下で行われる暴挙に対抗するのは、市民力しかない。不断の情報公開と、社会的な関心を持つグループの成長が市民社会を支えていくのだと思う。足利事件を大きな教訓として受け止めたい。

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