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碧濤のひとりごと

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会話人口

 朝起きてから、夜寝るまでの間に一人の人が話す人数の総和を「会話人口」として考えてみたい。刹那的な暴力事件が増加し、格差社会で落ちこぼれていく若者たちを身の回りに見るようになってくると、家族内を含め、近隣に住む人々の間に、どれほどの「会話」があるのだろうかとふと思ったからだ。
 人口千人の町でも、各人が十人と話せば「会話人口」は一万人だ。財政破綻した夕張の人たちが、何とかがんばっていられるのも、会話する機会が多いからではないのか。応援隊として入り込んだ人たちが、異口同音に夕張人の明るさを言うのは、外部の人に取り繕っているからではなく、会話人口がもともと多い炭坑町という特殊性も寄与したのではないか、と思っている。
 少子高齢化が進み、「定住人口」の増加が望めない各地で、地域振興を語る時によく出てくる言葉に「交流人口」がある。人を呼び込み、地域資源を活かし、滞留時間を増やして消費拡大を図ろうと、観光振興の立場からよく使われる言葉だ。
 しかし、交流人口を言う前に、今一度、計画のありようを振り返ってみたい。地域の疲弊が進み、政策的予算が限られる時代がしばらく続く。「コンクリートから人へ」とか、「コンクリートも人も」とか政策の力点の議論もあろうが、地域振興にとっての施策は、「会話人口」を増やす効果が顕著であるか、その施策の実施過程では「会話人口」が増える仕組みを付加しているかを確認する視点があっていいと思う。
 定住人口の減少は避けられないにしても、会話人口は増やせるはずだ。まちの「元気」は、結局はそこに住む人々の「会話の多さ」によるに違いないと考えている。

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コジェネ的発想

 発電の際に出る廃熱を給湯などに利用するコジェネシステム。最近は燃料電池によるコジェネが一般家庭でも取り入れられるようになってきた。廃熱からつくられた温水も、さらに低温になるまでの段階利用として、暖房→浴槽→洗濯→融雪などとして徹底的なエネルギーの活用が考えられる。
 地方交付税の急激な落ち込みで悲鳴を上げる自治体にもコジェネ的発想が求められている気がする。
 例えば、観光振興。自治体の担当職員は、ホテルや土産店の関係者を集め、講師を招いて「ホスピタリティ」の講演会を企画する。担当としては少ない予算で成し遂げられたら満足だろうが、せっかく集まる機会だから、関係者の懇談会や、名刺交換会を併設すれば思わぬ展開があるかも知れない。小さな視点だがコジェネ的発想としたい。
 W市は水族館の老朽化が課題だったが改修費はない。施設から20km離れた漁港にアザラシが住みつき、観光客がやってくるようになった。水族館から漁港にいたる沿道は国立公園と重なるから、漁港を含めて、「国立公園を持つ水族館」と言うだけで、金を掛けずとも施設の存在価値はぐんと増すはずだ。野鳥や高山植物まで見られる水族館といえば何だか行きたくなるではないか。大学と連携して地元の歴史文化等にも通じたガイドを育成すれば、観光リピーターの増加にもつながるし、新たな就業先を生み出すことも可能となる。学生獲得に悩む地元大学にとっても好都合だ。
 河川堤防に植林したが、木が成長して向こう岸が見えないほどになった。覗きの異常者が逃げ込むので伐採してくれと管理事務所に申し入れがあった。もともと地元に望まれて植えたのだから、伐木する費用はないに等しい。どの木を切るか地元に選ばせ、自然保護団体との調整は町内会に任せた。切った木の跡地には住民と地元自治体や管理事務所の職員で苗木を植えることにした。切った木の受入は自治体の処分場が引き受けた。それぞれが役割分担したので、管理事務所は切り手間と処分場への運搬費だけで済んだ。
 このような、課題解決手法は、広域自治体と基礎自治体と住民のつながりを取り戻す効果もある。福祉のまちづくり、防災のまちづくりなど、住民参加の中で様々な応用が考えられよう。協働の過程で節約されていく費用はバカにはならないはずだ。かつて公共事業の乗数効果が言われたが、今後はコジェネ的発想の乗数効果に期待したい。地域再生の鍵は、人のつながりを生み出す協働のコジェネ的発想にありそうな気がしている。

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へそ曲がり

 昔から、周りが言うことに「違うのではないか」と考えることが多かった。そのたびに協調性に欠けるとか、へそ曲がりと言われた。多数意見に合わせていれば、もう少し賢く生きられたのかもしれないし、へそ曲がりと言われても、知識を深めていれば「一家言持った人だ」とおだてられたかも知れないが、へそ曲がりは直らないまま、勉強もしないままで今に至ったから、このまま、偏屈なじいさんになっていくのだろうな、と想像している。
 多くの人が鳩山政権に失望したのは支持率の急減が証明しているが、事業仕分けで不要な事業・団体を一斉にあぶり出したり、事務次官会議をなくしたり、省益横並びの予算編成にメスを入れたことは、前政権ではできなかったこととして大きく評価している。
 期待を裏切った批判は免れないが、へそ曲がりから見れば、基地問題は今のところは前の計画に戻っただけのことだし、思わぬ形にせよ国民へ情報提供することになったのは、彼の誠意によるのだろうと理解している。彼の誠意とは、沖縄に深い関心を持ったことなどない多くの県外の人に、名護市や辺野古がどこで、キャンプ・シュワブとは、基地問題とは何か、沖縄県民の心情は等々、インターネットも含めて調べる気にさせたというへそ曲がり的理解である。
 今日は全国植樹祭。森はCO2を吸収するから、植樹は温暖化防止に役立つと参加市民はみな良いことをしたような気になり清々しい一日を送る。植樹自体は何ら悪いことはないが、へそ曲がりから見ると、過年植樹した場所がどうなっているのか、間伐や枝払いにも市民関心を向ける施策の方が大切な気がする。
 種を採取し育て、苗木を山に運び、植樹する。上手く育っているか時たま見に行っては下草を刈り、後年、我が子に子供時代に植えた木を見せては木の生長を喜ぶ。そんな一環があって初めて植樹だと考えるが、軍手を渡し、スコップを貸し、中には飲みものを配る植樹祭まであると聞くと何か違うと思えてくる。苗木の手配や、整地などに役所も直営作業で参加する時代だろうが、そんな今だからこそ尚更、命じる立場の管理職には、たまには、へそ曲がり的思考でチャレンジする勇気が必要なのではないかと思う。日本もここに至っては、社会の変化に対応できなかった堅実思考より、賢いへそ曲がり思考の方が社会貢献の可能性を秘めていると考えるからだ。

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タカラモノ

 「北海道で働いていた時、『このタカラモノが』と、親方によく叱られた。タカラモノは滅多にないものだから、まれに見るバカモノという意味だったんだな」
 就職したての私の北海道弁を聞きながら、下請会社の社長が懐かしそうに笑った。今から40年近く昔のことだ。
 考えてみると、あのころの日本には、まだ「タカラモノ」を受け入れる余裕があった。叱りながらも一人前に仕上げる時間を、ワカモノをバカモノから「宝物」にする度量を、日本社会も、多くの日本人も持ち合わせていた気がする。
 今はどうか。高度成長、グローバル社会は即戦力を求め、待つことを許さない社会を創ったように映る。人並みから外れた個性は遠ざけられ、大衆は平均値に集団化するかのようだ。社会構造の変化か、環境ホルモンのせいか、青信号を渡りきれない老人にクラクションを雨と降らせる類の者たちも多くなった気がする。
 「愚かかもしれない」首相の発言を、誠実な性格と斟酌することもないし、閣僚意見の違いを、開かれた党内意見とするマスコミ論調も見当たらない。社会のゆがみを放置した政権を何十年も温存させたのだから、2、3年くらい待てばいいじゃないかと思えるが、不安が先走っているのか、何が煽るのか、いつも「今が限界」とばかりの御時世なんだろうな、とも思う。
 ブータンでは国民総幸福量という指標を国の価値軸に据え、物質的な豊かさには価値を置いていない。国民もそれで十分幸福感を持って生きているという。
 タカラモノで十分生きられたあのころ、作業現場近くの寺に「緑深き み寺の内にあるほどは われもしばしの 仏なりけり」という月替わりの短歌が掲示されていたことがあった。仏の意味も分からぬままに、何となくその歌に惹かれ、連日40度近い猛暑の中、暇を見つけては木陰を散歩したものだ。今となれば、その暑ささえ懐かしいが、現代の若者が数十年か先に今を振り返るとき、何を懐かしく思うのだろうか。既に世代を違えた私に思いつくものはないが、彼らにとっても今の時代にタカラモノがあってほしいとは切に思う。

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ナミダ

 人間以外にも涙する動物がいる。過日のテレビ番組「天才!志村どうぶつ園」。18年前、交通事故で亡くなった象使いの坂本哲夢さんは、子象のランディをかわいがっていた。25才になったランディに哲夢さんの生前のパネル写真を見せ、ラジカセで声を聞かせると、涙を浮かべ、いとおしそうに鼻でそれらをなで回していた。その番組を見た多くの視聴者が感動したことだろう。
 10年ほど前、シカゴにあるブルックフィールド動物園のゴリラ舎に転落し、気を失った子供を、そっと抱えて飼育係の部屋に向かったゴリラの映像も多くの人を感動させた。
 若いうちは何となく気恥ずかしくて、瞳をぬらすだけで堪えていた「感動」の涙は、今ではまぶたから溢れるようになった。時々テレビ放映される施設のイベントなどで、幼児の訪問にさえ涙を浮かべるご老人の気持ちも分かる気がしてきた。
 痛さや空腹に泣くだけだった子供が、悔しさに、悲しみに泣くようになり、愛するものを思うだけで涙し、受けた優しさに泣くようになっていく。花鳥風月に涙が浮かぶようになってくると、人生も大体終わりに近づいているのかもしれないが、人は何と豊かに涙を流すことかと思う。感動する唯一の動物であるはずの特質を失っては人間ではいられない。
  昨年、水風呂に沈めるなどして4歳児を虐待死させた夫婦の家は、稚内にいた頃の自宅から100mも離れていなかった。人間顔した人間が人間と思われない行動をとる事例が身近に起こったせいもあってか、最近はこの種の事件がやけに多く感じる。そして彼らはどういう時に涙を流すのだろうか、とふと思う。
 幼児を虐待する者たちばかりではなく、為政者たちの施策・言動に失態が目立つのも、彼らの日々に、感動の涙が抜け落ちているからのような気がしてならない。

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