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碧濤のひとりごと

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タカラモノ

 「北海道で働いていた時、『このタカラモノが』と、親方によく叱られた。タカラモノは滅多にないものだから、まれに見るバカモノという意味だったんだな」
 就職したての私の北海道弁を聞きながら、下請会社の社長が懐かしそうに笑った。今から40年近く昔のことだ。
 考えてみると、あのころの日本には、まだ「タカラモノ」を受け入れる余裕があった。叱りながらも一人前に仕上げる時間を、ワカモノをバカモノから「宝物」にする度量を、日本社会も、多くの日本人も持ち合わせていた気がする。
 今はどうか。高度成長、グローバル社会は即戦力を求め、待つことを許さない社会を創ったように映る。人並みから外れた個性は遠ざけられ、大衆は平均値に集団化するかのようだ。社会構造の変化か、環境ホルモンのせいか、青信号を渡りきれない老人にクラクションを雨と降らせる類の者たちも多くなった気がする。
 「愚かかもしれない」首相の発言を、誠実な性格と斟酌することもないし、閣僚意見の違いを、開かれた党内意見とするマスコミ論調も見当たらない。社会のゆがみを放置した政権を何十年も温存させたのだから、2、3年くらい待てばいいじゃないかと思えるが、不安が先走っているのか、何が煽るのか、いつも「今が限界」とばかりの御時世なんだろうな、とも思う。
 ブータンでは国民総幸福量という指標を国の価値軸に据え、物質的な豊かさには価値を置いていない。国民もそれで十分幸福感を持って生きているという。
 タカラモノで十分生きられたあのころ、作業現場近くの寺に「緑深き み寺の内にあるほどは われもしばしの 仏なりけり」という月替わりの短歌が掲示されていたことがあった。仏の意味も分からぬままに、何となくその歌に惹かれ、連日40度近い猛暑の中、暇を見つけては木陰を散歩したものだ。今となれば、その暑ささえ懐かしいが、現代の若者が数十年か先に今を振り返るとき、何を懐かしく思うのだろうか。既に世代を違えた私に思いつくものはないが、彼らにとっても今の時代にタカラモノがあってほしいとは切に思う。

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