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碧濤のひとりごと

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菅退陣に思う

 菅首相が退陣を表明し、前原、海江田、野田、鹿能、馬淵による民主党の代表選が行われる。誰が総理にふさわしいか国民には吟味する余地もない日程だ。
 昨年6月の菅内閣の誕生時は一人の対立候補(樽床)を圧倒してのものだったから、その時点では、民主党員の多くの支持を得ていたと言えなくもない。脱小沢色を鮮明にした組閣で支持率は68%と急上昇したが、「しばらくおとなしくされていた方が身のため」との牽制発言は、あまりに刺激的であった。おそらくはあの時点で、決定的に小沢一派を敵に回したのではなかろうか。
 その直後の消費税率10%発言は、国民からは不信、身内には軽率な発言と見なされ、組閣1か月後の7月の参院選は惨敗となった。9月に起きた、尖閣沖中国漁船衝突での情報操作では、「自民党時代と何も変わらないではないか」との、国民の政府不信に追い打ちを掛けた。
  思いつき発言、独断人事で内部亀裂を深めたと言われる菅退陣後のいま、国民が望むのは、駆け引きや根回しによる代表選出よりも、ふさわしい代表と納得できる「徹底討論」ではなかったろうか。共同記者会見での一方的主張や党主催討論会などの出来レースではなく、切り込み激しい司会者の下で議論させるほうがよかった。そして挙党一致は誰もが言うのだから、代表選後は新代表に協力することを公に向かって宣言させるべきだった。
 「国民に情報提供し責任を果たした」とでもいうようなマスコミも腹立たしい。過去、原発推進に加担した結果責任があるのだから、未来に向けての責任もあるはずだ。候補者の緊急討論会に踏み込めなかった現実に、無力感が襲う。そして、このまま新体制も内部分裂を抱えながら、何もできないうちに次の総選挙を迎え、日本はますます国際信用を失っていくのであろう気がする。
 国民不在の国民主権は、福島原発事故の政府対応で決定的となった。「安全です」と不安を招いた結果の方が、「危険です」と冷静な対応を促すより、事故後の対応を遅らせたように感じられるのは私だけだろうか。
 国民の政治離れが続き、二大政党に自浄能力がないのだとすれば、一体どうすればいいのだろうか。何もできない代表なら、せめて、古賀茂明氏のような官僚内部事情に詳しい憂国の士を政府中枢要職に取り立て、清廉潔白な学者による各種審議会の組み直しを行い、地方政府の成熟を促していくようにならぬものかと、夢思う。

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防災体制に思う

 土木現業職場の最前線に長くいたせいか、台風時期になるといつも不安になる。
 昭和52年に有珠山が噴火し、翌年土石流が流れ出た。警戒のサイレン音が雨の音に消される中、音のない泥流に足を取られながらやっと事務所にたどり着いた。胸まで泥に埋まりながら、工事途中の新庁舎あたりに流されたという子供を捜した。一刻を争うため、コンクリートを打ち終えたばかりの基礎を壊す決定を所長に仰いだ。所長が決断を下せずにいると、決定権限のない係長が「自分が責任を取るから」と業者を納得させた。まだ若かった私は感激したものだ。
 事業遂行上の課題が複雑化するにつれ、優秀な人材は本庁に偏り、他官庁との調整、将来計画の策定など調整、企画部門を専らとするようになっていったのは、そのころからだったように思う。
 そして、経済成長が減速・停滞し、3K職場などといわれるに従い、新卒技術者の能力低下は顕著になった。土木を巡る環境が急速に変わり、現場は複合課題への処理能力を失いつつあるのに、「現場の所長は誰でもできる」とでもいうような、不都合を金と裁量で解決してきた時代そのままの人事が続いているように思えた。その残滓は今もありはしないか。
 現場は土木事業が減れば配置職員数も減らされる。しかし既にできた施設の管理や維持業務は残る。その金も削減される時代だから、施設の脆弱性は今はさらに高まっているともいえる。パトロールは外注できても、責任は外注できない。警戒態勢を越えて、非常事態(災害)が起こり出すと、確認、指示、対応、報告業務が爆発的に増える。おそらく何が何だか分からない状態の現場になるに違いない。そろそろ、土木以外の職員も含めて、組織全体として、あるいは、盆や正月なら、地元に帰省中の他部の職員も取り込んで対応しなければならない時代になっているのではなかろうかと思う。経費削減と言って管理職だけで、警戒時管理をしていると、計器確認・報告業務さえ、非常時に、職員が代行できない事態になりかねないのだ。
 これまで、現場人員削減のしわ寄せは、運転手など現業職員を事務職員に回すなどして、員数合わせをしてきた。当然不足する事務処理能力を、若手職員や現場係長が補わざるを得ず、過度の負担を強いることになる。人事の沈滞、やる気の喪失、中堅職員に心の病が増えたのは業務量と責任の偏在にも原因があるように思えてならない。
 防災体制の確立は、生き生きとした職場を取り戻すための日常業務の<ありよう>から見直すべき大事案である。こんな時代だからこそ、本庁から腰を上げて、将来を期待される幹部職員も積極的に現場にはり付け、豊かな発想で、最前線職場の刷新に取り組む時なのではないかと思う。

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だまされないように

 終戦記念日が近づくこの時期、特攻隊攻撃で命を落とした若者達を扱う報道も増える。
 みんなみの雲染む果てに散らんとも くにの野花とわれは咲きたし
 (高崎文雄 十九才 海軍予科練出身)
 十九歳でここまで精神性が高まるものなのだろうか、と感動すら覚えるが、前途有望な若者達を死に追いやったのは誰か。
 みながみな苦しむ果てに散らんとも 責を逃れてわれは肥えたし
 原発の裏でうごめく産学官上層部が重なって見えてしまうのは、私のへそ曲がりの人生観から来るのであろうか。
 福島原発の事故調査・検証委員会が動き出している。 畑村委員長は「失敗学」の権威とか。第一回委員会では、「畑村の考えで進める」と話した。しかし、現状日本の無責任社会に「失敗から学んだ原発」は定立しない。
 
証言者のヒアリングを含め原則公開するとしていたが、7月8日付委員会申合せ「ヒアリングの方法等について(案)」では、「ヒアリングは、原則として、非公開かつ少人数で行うこととする」「当委員会の設置は、事故責任を追及することを目的とするものではない。したがって、当委員会は、ヒアリングで得た資料(供述内容のこと)を、事故責任を追及する目的では使用しない」となった。またヒアリング内容の記録について、「・・・正確性を期するために、相手方の同意が得られない場合及びICレコーダーを準備する暇がない場合は、ICレコーダーへの録音はせずにヒアリング実施することとするが、その場合でも、できる限り正確にメモを取ることとする。」とある。
 ヒアリングを公開しIC録音を必至にして、どうしてだめなのか。そのためデータ収集が限定的になっても内部告発者を保護しつつ、責任の所在をはっきりさせる資料とすべきではないのか。
 良心的な科学者などから内実の多くが指摘されている。責任を逃れる口実に「責任を問わない条件で話しました」とか「記録内容は話したことと違う」とされないか、勘ぐってしまう。
 来年には、経産省から原子力安全・保安院を分離し、原子力安全庁(仮称)が設置されるようだ。新組織がどんな構成か、利権の絡む政府関係者が入り込まないか、そちらも<だまされないように>注視していかなければならない。

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基準緩和

 放射能障害にはこの値までは大丈夫という閾(しきい)値がないという。つまり、低レベルの放射能で症状が出る人もいるということだ。このため、膨大な調査を下に、世界共通の基準として、ICRP(国際放射線防護委員会)では内部+外部被曝の合計で、年間1ms(ミリシーベルト)以内とするよう勧告している。この値までは妊婦や幼児も<まずは安全と考えられる>という国際基準だ。
 今回の汚染牛肉の拡大に合わせたように、内閣府の食品安全委員会作業グループは、ICRPの基準値を維持できないとして、暫定基準の方向性を示した。新基準は年間では20ms以内を目安にし、125msから統計的に有意差が出始めているので、生涯被ばく量として、100msを定めるという。 生涯100msなら、100才まで生きる人はごくまれだから、国民のほとんどが法律の上限1msを超えることになる。
 初期対応の誤りと対策の遅れを、急いで変えた基準値で、つじつま合わせするなど許されるものではないが、基準を今変える理由は何か外にあるのではないのか、と勘ぐりたくなる。
 年間20msは1年で、1000人に一人発がん者を増加させるといわれる値だ。同じ被曝値が3年続けばリスクは3人に増える。統計的な有意値とは一般には信頼度95%になる値をいうから、ほとんどの人が「癌が増えているね」という感覚を許容値にするということだろうと思う。
 もし、風向き具合で、東京にも福島と同程度の汚染物質が降り注でいたとしたら、どういう措置をしたか。現役官僚も妻子のことを考え、まずは除染対策であったろう。基準を緩めて汚染食材を食わそうとはしないはずだ。作業グループに提出する事務局素案自体が、内部被曝や累積被曝も考慮して今回とは大違いだったのではないか。
 その原点に戻って考え直してもらわねばならない。過去、営々と続いた官僚体制に甘んじる者は今回の対応次第では、断罪されるかもしれないと考えた方がよい。警鐘を鳴らす良識的な学識者の意見に素直に耳を傾ける時が来ているのではあるまいか。

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看板だけ掲げるのは無責任か?

 7月14日付・読売社説である。
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「脱原発宣言 看板だけ掲げるのは無責任だ」
 深刻な電力不足が予想される中で、脱原子力発電の“看板”だけを掲げるのは無責任だ。菅首相は13日の記者会見で、「原発に依存しない社会を目指すべきだ。計画的、段階的に依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べた。日本のエネルギー政策を大転換する方針を示したものだが、原発をどのように減らしていくのか、肝心の具体策は示さなかった。原子力発電を補う代替エネルギーの確保策が、不透明なままだったことも問題である。首相は、太陽光や風力などの自然エネルギーを「ポスト原発」の有力候補と考えているようだ。自然エネルギーの普及は促進すべきだが、現時点では総電力の1%にとどまり、発電量は天候などで変動する。コストも高い。量と価格の両面で難題を抱えており、近い将来、原発に代わる基幹電力の役割を担えるほど見通しは甘くない。火力発電で急場をしのげても、燃料費がかさんで電力料金が上がれば、産業の競争力低下を招く。工場の海外移転による空洞化も加速して、日本経済は窮地に立たされかねない。安全確保を徹底しつつ、原発利用を続けることが、経済の衰退を防ぐためには欠かせない。首相はまた、当面の電力不足について、節電などで「この夏と冬に必要な電力供給は可能だ」との見通しを述べたが、その根拠についての言及はなかった。企業の自家発電など「埋蔵電力」も活用できると見ているようだが、どの程度の供給余力があるのか、手探りの状態にある。代替電力の展望もないまま原発からの脱却ばかりを強調するのは、あまりにも非現実的だ。原発のストレステスト(耐性検査)を巡る閣内不一致によって、九州電力玄海原発など、定期検査で停止している原発の再稼働に見通しが立たなくなっている。首相が、ストレステストの判断が妥当なら「再稼働を認めることは十分にある」と述べたのは、当然のことである。ただし、脱原発を掲げる政府が運転再開を求めても、地元自治体は戸惑うだろう。首相には、福島第一原発の事故に伴う国民の不安に乗じ、脱原発を唱えることで、政権延命を図る思惑もあったのではないか。場当たり的言動が、多くの混乱を引き起こしている。首相は、そのことを自覚すべきだ。
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「脱原発は、産業競争力が低下して、経済が衰退するから困る」と言いたいらしい。「火力発電で急場をしのげても、燃料費がかさんで・・・」の「急場」とはたかだか電力需要期の一時のことではないのか。気温30度を超える今さえ、54基の原発中18基で乗り切っているではないか。未来に悔恨を残しかねないこれ以上の原発新設は不要である。今後廃炉となる原発に見合うように、自然エネルギーや低リスクエネルギーに転換していけばいいのだと信じる。
 「近い将来、原発に代わる基幹電力の役割を担えるほど見通しは甘くない」ともあるが、「近い将来」とはいつのことか。人口は既に減少期に入り、10年後には500万人、25年後には2千万人も減る。経済活動を右肩上がりで考える時代は終わりに近い。その上、高齢者割合が格段に増え消費性向も変わるから、将来の電力需要を過大に見る必要性はない。
 近い将来をいうなら「原因を特定できない」と国が責任逃れしかねないガン患者が増えていくことこそ問題だ。未曾有の事故を起こした当事国が原発依存を続けることは、国民が原発推進派に屈したことに他ならない。
 電力不安を煽るマスコミを尻目に、多くの企業が脱原発に声を荒げるでもなく、社内体制を見直し、今夏の節電に協力していて倫理観は正常だ。自らの爆弾で戦争並みの被害をもたらした原発事故。日本再建を、原発一家の再装備計画に託すのではなく、クリーンな事故処理への具体策に希望をつなぎたいものだ。あと1ヶ月の夏場の終焉が待たれる。



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