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碧濤のひとりごと

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命の深さ

 人間の価値を金で換算するような社会構造がいつの間にかできて、そのトップに昇ることが人生の第一義であるかのような社会風潮が強く感じられる最近である。人の能力には差異があるし、個人努力のファクターもあるから、配分に偏りのあることは仕方ないが、それにも分をわきまえた限度というものがあろう。
 道義的責任に頬被りをして、(本当はあるはずの)法的責任が問えないからと億単位の退職金をもらう東京電力社長や、何万人という人を生命の危機に陥れておきながら、地位に居座り続ける原発村の人たちを見ていると、被曝地に入り込む泥棒以上の「浅ましさ」を感じる。
 人間の価値は社会的地位にあるのではない。そう、つくづく思わされたのは、ダウン症の書家、金澤翔子さんの作品を紹介する昨年暮れの番組であった。ダウン症と言えば、染色体の異常による知的障害者と捉えるだけの人が多いと思う。しかし、知的能力に障害を持つことと、命の深淵に迫っていることとは、全く別ものであることを、まだ25歳の彼女の作品群は教えてくれる。(参考 http://noritake777.jp/kanazawa/shouko-index.html など)
 年を経るに従い、花鳥風月が心に残るようになってはきたが、彼女の書が訴える花や月は何と深い命の心象であろうか。私もこのような心象を得たいがための人生だったはずだが、社会生活の浅ましさの中で毒されてきたことを、彼女の前では認めざるを得ない。
 弱い者、目立たぬ者たちを「劣る」と言ってはならない。思ってもならない。命の輝きには知能も社会的地位も全く関係しないのだから。彼女の書はそれを教えて余りある。
 命の深さを実感するような社会を創るために我々の今なすべきことは何か。今年はそれを自らに問いつつ行動する日々でありたいと思う。

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未来への責任

 サハリンから韓国までおよそ3千㎞を走る天然ガスパイプラインが現実になりそうだ。金正日総書記が北朝鮮国内700㎞を通過させることを承諾したからだ。パイプラインの通過料として北朝鮮には年間一億ドルが支払われるという。もし釜山から海峡を延びれば200㎞で日本に届く。年間300億立方㍍の天然ガスを運べるというから、不測の発電にも十分だろう。日本に渡ったパイプラインが北上すれば北海道は一番遠い?
 サハリンは宗谷海峡を挟んで、わずか40㎞の対岸だ。北朝鮮国内の700㎞の敷設ができて、わずか40㎞の議論が聞こえてこない。
 40年以上も前、石炭に代わるエネルギー検討過程で浮上し、石油にその座を譲った天然ガス。当時の諸情勢からみれば、天然ガスの優位性は飛躍的に高まっているはずだ。現在進行形の電力のピーク需要を国民力で乗り切っているにも関わらず、脱原発社会を宣言できずにいる日本は一体どこに向かおうというのか。国も北海道も為政者の構想力、政策力の乏しさは情けない限りだ。
 人口減少、少子高齢化が進む社会の電力需要増はたかが知れていよう。市場原理主義からの転換点が福島原発にあるべきと思う。
 高度成長期の恩恵を甘んじて受けてきた我々団塊世代に、「未来への責任を果たせ」と、「今」が迫っている気がする。NASAのLangley研究所の門には Dream can do, Reality can do.(思い描けられれば、夢は叶えられる)とあるという。
 友たちよ、思い描ける未来はあるか。

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記憶の欠落

 小学生当時住んでいた辺りは、毎年、墓参りの度に通るせいか、沿道の住宅が建て替わっても、幼い記憶は道なりに重なっていた。だから、少しでも記憶があれば、どこでもその辺りに行けば忘れていることも蘇るかと思っていた。しかし、記憶は欠落するものらしい。
 25歳の頃の一年間、私は奈良の西大寺から徒歩15分ほどの、道の両脇に水田が広がる一角に住んでいた。先日、京都へ行く機会があり、空いた時間、37年ぶりに周辺を歩いてみた。水田は住宅街に変わっていた。
 京都の工事現場まで電車で通っていたそのころ、夜遅くまで開いていた駅前のよろず屋で晩飯のおかずを買い、寺の外壁周りに、銀木犀の甘い香りを楽しんで帰途についた。建物は替わっても、辿る道沿いに薄れた記憶がよみがえると思ったが、古代壁画のように、微かな色の断片がたまに認められるだけで記憶はつながらない。西大寺境内の様子も鮮やかに残る記憶とは違っていた。いつの間にか、記憶は変質もしていたのだ。
 住まい近くに菅原神社があった。有名な神社ではあるが、それさえ微かな記憶以上に出ない。神社前にトタン板に古い住居図の描かれた看板があった。当時のアパート名が消えかけたペンキ跡から判読できた。ふと、「確かな記憶なんてないのではないか」と思った。
 翌日は京都南禅寺に出向いた。奈良に住む一年前はそこの工事現場だった。気温38度が一週間続いた夏だった。北海道育ちの自分には初めて体験する暑さで、毎日コーラをがぶ飲みしていた。寝泊まりもした印象深いところ故、すぐ分かる気がしていたが、記憶にある場所を特定することはできなかった。
 あっという間に三十数年が過ぎた気がするが、記憶が欠落することを考えると、ずいぶん長い期間が経っているとも言える。
 西大寺から記憶を辿って歩く途中、不意に水田のウシガエルの声が思い出され、当時引きずっていた辛い恋まで鮮やかに蘇った。しかし、それさえも、欠落し変質した記憶の断片に過ぎなのかも知れないと、いま思う。

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経済音痴の想像

 一番大事な時に将来への備えを怠っておいて、今になって立ちすくんで見える日本。この間、安穏と息をしてきた自分の人生に重なって見えるから尚更に腹が立つのだと思い当たった。
 <名声>や<財産>や<権力>に人は群がる。欲には際限がないから、手に入れても満足することがない。高度成長は人の心理を煽り、ついには子孫の財産として残すべき景観や資源にまで手を付けるようになったと思われる。
 高度成長の裏側の都合の悪い情報は体よく加工され、加工できない情報は徹底して隠し、取り巻きには、比較優越の満足感をもたらす<おこぼれ>をばらまいてきた。
 ばらまきへの関与の直接、間接を問わず、情報操作意識の有無を問わず、おこぼれは生活の隅々に入り込む。おこぼれとは、補助金であったり、天下り先であったり、常識からかけ離れた福利厚生待遇であったりする。恩恵を受ける者の狎れ合いは次々と連鎖して不祥事を引き起こしていく。あろうことか、警察、検察、裁判所にまで、情報操作の影響は浸潤しているのではないかと思えるほどだ。最近の社会が、悪魔対天使のごとく、一部特権者対一般良識者の現代版階級闘争の様相を帯びて見えるのは私だけだろうか。
 人口減少、少子高齢化がすすむ日本社会はどこに向かっていくのだろうか。経済音痴の私ではあるが、以下のような妄想が頭に浮かぶ。
 ・・・ 少子高齢化は日本ばかりの問題ではない。買う人がいなければ経済成長はない。高齢者はおいそれとは買い替えない。お得意先の周辺国も少子高齢化が進む。TPPは、アメリカに袖にされて困る一部の人のために、国民の非常時市場を明け渡す愚かな選択に見える。農業者の問題ばかりではない。いずれは我が身に返る産業人までが情報操作の餌食にされてTPPに賛同しているように見える。
 我が国の市場は十分解放されているのに、国内の自活手段さえ手放すTPPは、万が一の非常食を、食券と交換するようなものだと思える。
 米国主導の市場原理主義に染まる限り、TPP加盟していない韓国、中国を含め、未来市場に希望はない気がする。市場原理主義がもたらしたものは、今の状況が十分物語っている。成熟社会には別の展開があるはずだ。
 今なすべきは、市場原理主義に代わる、経済停滞下で機能する未来モデルを我が国が示す時ではないのか。それが何かは知らない。しかし、そこへの転換点が、高度成長の行き着いた、原発事故にあった気がするのだが・・・

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腹立ちと贖罪

 原発関連のニュースにふれるごとに、無責任層が社会のトップに居座り、良識層が社会の隅に追いやられている気がして腹立ちが募る。腹を立てているばかりの自分の不甲斐なさにも腹が立つ。後世に対する責任として、我々世代が今をどう動いているのか、講演会への出席や、原発反対署名はするが、それ位しかしていないではないかという腹立ちである。
 今や社会のトップは我々と同じ戦後世代だ。子ども時代の日本の貧しさをおぼえてはいても、高度成長期の波に乗って、身分不相応な遊びもできた世代だ。派遣会社もなく、まじめなら正職員として働く場はどこかにあり、今から見れば「夢を持てる時代」に生きた世代だ。
 70年代は、社会的格差の悲惨さなどを真剣に考えたこともなかったし、高齢化や環境保全への未来不安にまじめに向き合ったこともない。社会悪の多くは金の力で押し込めていたようにも思う。そんな時代を許し、生きたツケが今来ているともいえる。
 増長した権力者はやりたい放題で悪行は全般化し、社会階層の隅々にはびこって見える。原発事故被災者を粗末に扱いながら、何億円という退職金を平然と受け取る東電社長に批判が少ないのは、マスコミも含め権力層の多くが一般市民の感覚を失っているからと見ても、大きな間違いはないだろう。公開が原則の原子力情報を黒塗りで「公開」と称し、利害関係者の弁済義務は国民にツケ回し、国民の健康より経済混乱を恐れ、法的許容値を何十倍にも引き上げて「直ちに影響はない」と言う社会がそれを語るようだ。外国からはどう見えるのか。
http://www.youtube.com/watch?v=kH00psyB4lc&feature=player_embedded
 世界から笑いものの日本に対する評価をかろうじて支えているのは、産官権力集団ではなく、町工場の職人のような一般市民だ。サッカーでも、災害救助隊でも、海外協力隊でもみな普通の暮らし人だ。その後ろに辛い日々を送る、声を出せない普通の若者が何百万人と続く。
 腐敗とは放っておくと正常部分さえも侵し、移り、広がるものだ。腐りきらないうちに、普通の若者が社会参画し、自分の将来を設計できるシステムが必要だ。いま動き出さなければ、悔いを残す人生になりそうな気がする。若者世代に対し、贖罪の念が高まるのを感じる日々である。

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