2013/02/20 Category : エッセイ 権力と責任 「ホーネッカーの寓話」を精華大学の秦暉教授が雑誌「世界」(岩波書店2月号)で紹介している。浅学の頭には以下のようなことと読みとれた。 ・・・ベルリンの壁崩壊を東独権力が武力阻止したと仮定し、その後、東独が政治的に経済開放を進めて西側の資本を導入すれば、東独の低価格商品が西側を席巻するようになり、西ドイツは失業危機となる。それは、東独の搾取工場が西独の福祉国家を打ち負かすことであり、17世紀の資本主義が20世紀の資本主義を打ち負かすことであり、「独裁資本主義」が「民主社会主義」を打ち負かすことになる。現在の中国を東独、日本を含む先進諸国を西独として重ねると、グローバル化の結果、今世界で起こっている様々な問題が、それぞれ単独の国では解決できない問題としてはっきり認識されてくるだろう・・・というもの。 グローバル化に抱いていた直感的な不安を明かされたようで、思い描く未来への、何十枚も重なった曇りガラスの一枚が取り払われた気がした。 貿易のグローバル化は資本や金融のグローバル化を求め、そのシステムが整備される過程で富の偏在を加速したように思える。自由と福祉を求める裏側には、公害や戦争という負の遺産も発生する。庶民への恩恵は喧伝され、被害は過小あるいは秘密裏に報告・処理され、政治と産業の結託、国際競争の利権の渦に、多くの庶民は翻弄されるものだ。 「日本が危ない方向に進みつつあるのではないか」、と遅ればせながら思ったのは2010年9月の尖閣諸島沖中国漁船衝突事件であった。ネットに流れ出た動画が「国家秘密」に値するほどのものか、多くの国民が疑念を持ったろう。現行法制で情報漏洩は対処できるというのに、「秘密保全法」を制定しようとする動きになった。その半年後に起きた原発事故では原因、経緯の多くが不明のまま2年が経とうとしている。人災といわれるのに責任をとった関係者はいない。 中国からの粒子状物質PM2.5は話題になるが、復興地の課題、放射能汚染の現状や、海外に及ぼした影響の報道はあまりに少ない。社会が複雑に絡みあう時代だからこそ、関係国の主張やその背景も含め、情報はもっと公開しなければならないと思うが、大切な情報が国民からあまりに遠い気がする。かつて、権力と闘うイメージで見ていたマスコミには、「どうなってしまったの」と聞きたいくらいだ。 一部の者だけで秘密裏に進められるシステムとは、裏返せば、<権力の拡大>を意味しよう。責任をとれない社会には<権力の制限>をこそ加えるべきではないのか。何が日本のためになり、何が国民を不幸にするのか。不況脱却の裏側で進められようとしていることを凝視していかねばならない。 [3回]PR
2013/02/12 Category : エッセイ 豊かな社会をイメージできるか 今から20年くらい前までのサハリンは、ソビエト崩壊直後の余韻が至る所に残り、まるで、経済戦勝国日本から経済敗戦国ソビエトに立ち入ったような錯覚をおぼえたものだ。 第二次大戦後サハリンに取り残された日本人に「経済的に豊かな社会になることは、心も豊かな社会になるということ、ではないのですか?」と聞かれて、高度成長がもたらす不安と、社会幸福のありようを再確認したくて日本からやって来た理由を、当時は理解してはもらえなかった。それは、腹一杯食べて成人病に罹り、強制的に治療するため痩せた土地に来た贅沢人の戯言のようにしか思われなかったに違いないと、今なら思う。 しかし、その後も日本は、人間の価値を市場即戦力で判断し続け、それを支援する制度で社会を運営する道を選んだ。結果、社会的弱者を圧迫しつつ人心相互を隔てて、殺伐とした社会に更に踏み込んだような気がする。 規制緩和の名の下で、労働者派遣法は非正規雇用を一気に進め、現在、労働者の3人に1人、高校を出て就職したくても80%は非正規雇用といわれる。賃金の低い非正規雇用の若者は欲しいものを我慢し、消費活動に積極的参加はしない。高齢者は小金があっても老い先が心配で金を使わない。規制緩和は一部大企業に利して内部留保を増やしただけに見える。扇情的、劇場型スローガンに国民の多くがだまされた結果が「今」ではないのか、と思える。 経済優先社会とは、そんな側面を持つのであろうとの疑念が消えぬまま、わたしも、今に至ってはいるが、東日本大震災と原発事故後、普通の<暮らし人>に、一条ならぬ光も見ている。暴徒と化すことなく現地で声を挙げ呼応し助け合う人々、声なき全国の支援者に対してである。そこに、世界に抜きん出た日本人の特質、文化的絆社会が生きていると感じる。日本全体で見れば、決して少なくないその人たちの声を汲み上げる政治が「市民政治」だと思ってもいる。 私の産業グローバル化のイメージは、小さな町工場が世界の市場につながるようなグローバル化である。さらに言えば、日本が目指すべきは、偉大な中小企業大国であり、他国に秀でた技術と製品で競争を生き、収益を会社拡大ではなく、社員の雇用優先と社会に還元する、節操のある「ほどほど社会」である。グローバル化に縁遠いものは、地域内で1次、2次、3次産業の循環に組み込まれた6次産業社会を構成すればよいと思える。 今、50基の原発のうちただ2基が動いているだけだが、48基が動かなくて停電が起きているわけでもない。<原発でつくった電気>という<汚染商品>を要らない、買いたくないと言う国民が7割以上いるというのに、その<汚染商品>を作り続け、無理強いする企業が存続するのはおかしい。 処理に成功しない核ゴミを再生可能な資源と言い続ける、ほんの一握りの利権集団のために、何千万人の国民の命が危険にさらされている。日米原子力協定が切れる2018年も近い。米国との信頼関係を損なうことなく原発ゼロ日本の筋道を描く時期に来ていると思える。政治家は未来にどんな日本をイメージしているのであろうか。 [3回]
2013/02/01 Category : エッセイ 女子柔道事件2 女子柔道の監督が「進退伺い」を提出した。選手たちとの信頼関係の修復は困難と判断したようだ。昨年9月の選手からの告発に対し、厳重注意処分、12月のJOCからの連絡にも、戒告処分で済ませ監督を継続させた全柔連は、これから対応を協議するという。 テレビ会見を見る限り、監督は隠すことなく淡々と記者質問に答えているようで、画面を見る私には潔くさえ見えた。そして、彼が暴力、パワハラの何たるかを知らずに、それが許されてきた社会の中で成長し、今があることに同情するとともに、彼一人に、大きな責任をかぶせて、体質が何も変わらない全柔連とならないか、を危惧した。 私がもし、へそ曲がり監督だったとして、自己弁護すればどう言うだろうか。・・・ 「幼い頃から柔道に打ち込んできた私は、鉄拳的指導も許されてきたこの社会で強くなり、だから世界チャンピオンにもなれたと思います」 「私の鉄拳的指導は、手加減をしたもので、それが間違っていたなら、そういう環境が当たり前と、かつて指導し、いまは全柔連の幹部となっている方を放置するのもおかしいと思います。組織的体質を改めるなら私だけの責任では済まないはずです」 「鉄拳的指導のあることは昔からマスコミも知っていたはずです。強い柔道日本の時には、指導方法はおかしいと言わず、いま初めて問題にしているのは不思議です」・・・ 全柔連の幹部には、「柔術」を「柔道」に替えた嘉納治五郎の精神に立ち返り、「道」の心構えについて、柔道家らしい責任の取り方を、自ら示してほしいものだ。 [4回]
2013/01/30 Category : エッセイ 女子柔道事件 今度は女子柔道ナショナルチームでの不祥事である。五輪強化に向けた合宿で、監督から暴力やパワハラを受けた、と国内トップ選手15人からJOC(日本オリンピック委員会)に訴えがあった。全日本柔道連盟(全柔連)は倫理委員会で監督らに聞き取り調査し、当事者は事実関係を大筋で認めたという。 訴えがJOCに対してだったということは、全柔連組織が自浄作用を失っていて、「全柔連に訴えても効果がない」、と選手たちが思っていたからではないのか。また、15人のトップ選手が訴えたということは、それに続く多くの女子選手が、今もまだ苦しんでいるということを意味しているのではないか。ニュースに触れた途端、時代遅れの組織体制と選手の置かれた悲惨な環境を想像した。 歴史があり、成果もある女子柔道界の、コーチや監督が相変わらず男性なのも不思議だ。一昨年、大学女子柔道部員にセクハラ行為をして懲戒免職処分を受けたオリンピック金メダリストのコーチがいたが、<勝てば普段の品行は問わない>とでもいうような全柔連の雰囲気が、このような監督、コーチを育てたのではないか、と疑われても仕方なかろう。 武道が中学校で必修化されたが、告発された監督やコーチはもちろん、そういう指導をよしと考える、上層部を含めた人たちに、「武道とは・・」とか「心の修行とは・・」などを言う資格がないのは当然である。 [2回]
2013/01/29 Category : エッセイ 思想脳老 脳の老化であろう。小さな字が読みにくいからとか、興味がないでは片付けられないと思うのが、電化製品などの取り扱い説明書を読む億劫さである。どのスイッチがどんな働きをするのか、いちいち調べるのが面倒くさい。簡単な、組み立て式の家具なども、完成するまで一苦労だ。タレントや政治家の名前もなかなか出てこないし、いま、話している知人の名さえ忘れているなんていうことまである。 テレビに向かって「それは違うだろう」「お前さんが責任者だろうが」などと声を荒げる場面が多くなっているが、腹の立つ感覚だけがあって、事柄の詳細を反すうして筋道を立ててから腹立っているかどうかは極めて怪しい。 学生運動が盛んだった’70年代、政治に興味を示さず終えた学生時代だったが、あの頃が今なら、自分もノンポリ学生ではあり得なかった、などと思いつつ、今の無関心な世相を許した一人が自分ではないかと、これまた腹を立てる。<思想脳老>だ。 「最低でも県外」と沖縄県民を期待させて突き落としたあたりから、政治への腹立ちも激しくなり、3・11の大震災以降、思想脳老の症状は死相脳老に進んだかも知れぬ。 今後、被ばくした子供の話し相手くらいはしていくつもりだが、こんな日本でも、海外の若者たちからはクール(かっこいい)と思われている面も多いらしい。マンガやアニメ、ファッション、料理や伝統工芸の中に、かっこいい日本を感じるのだそうだ。 世界には汚職が蔓延し、人身売買が平然と行われる国もあるから、日本はそう悪い国ではないのかもしれない。若い時代、年寄りの頑固さが気になっていたが、時代が変わったのではなく、自分が老化しただけなのだろう。 説明書、解説書の類は読まない質の妻は、それで老化をはかれないが、人の名前は思い出すまで考えているし、こちらが忘れている昔のことを感心するほど憶えているから、当分大丈夫だろう。私は、晩酌も影響してか、妻より先に呆けるに違いない。 来年になれば私も、社会が認める、りっぱな高齢者になる。“りっぱな”とは公共施設の利用料も格段に安くなるという意味だ。今年は、腹を立てずに恩恵に感謝する高齢者となるべく精出した方が、思想脳老の療養には役立ちそうではある。 [3回]