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碧濤のひとりごと

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WikiLeaks

 携帯電話が広がる直前に、高校時代のクラス会があった。大学時代に太陽光パネルを研究したという一人が40代半ばで大手電機メーカーの重役の要職にあった。先見性によって、人はこうも出世するものなのだ、と感心しながら、「サハラ砂漠の真ん中から、世界中どこへも電話できる時代がそこに来ている」という彼の話を聞いた。空っぽ頭のチホウ公務員の一人だった私には半信半疑だったが、そんな時代はすぐに来た。少ししてwindows95が爆発的に広がり、インターネット時代がやってきた。
 今、youtubeという動画サイトが出現し、立花隆氏によれば「一人ひとりが放送局を持つ時代」になっている。中国漁船衝突事件が政府の思惑を飛び越えて、極めて短時間に国民に知れ渡ったのは象徴的だった。
 そしてWikiLeaks。今年4月に公開された、3年前に起きたイラク戦争の民間人殺傷事件は世界中を震撼させた。大国の為政者が政策の正当性を訴えても、その裏で為される行動の非条理さは、世界中のネットに群がる常識人に、あっという間に知れ渡る時代になった。不都合な情報を明かす者を抹殺する暇もないうちに...。
 独裁者を手なずけ、貧しい国の資源を吸い上げ、得をしている者がいるはずだ。国家保全の名の下に、大量破壊兵器をつくるのも、地球規模の環境汚染が広がるのも、その裏側で得をしている者がいるからに違いない。突きつめれば限られた者の贅のために...。
 現場実態を知る良識人が、甘言の裏側に為されている事実を明かさんとする衝動は止めようがない。どんなに取り締まっても第二、第三のWikiLeaksが現れよう。瞬時に世界を覆うように広がる情報が、まるで、利権に貪り侵される地球の叫び声のように感じられる。良識ある人々は、その叫び声を確かに聞いているに違いない。利権を満載した制御の効かない船の舵を切るには、的確な情報公開と市民のネットワーク力しかないように思える。

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非常事態

 臨時国会も終盤に入った矢先の、11/24、北朝鮮による延坪島砲撃事件が起きた。この奇襲攻撃に対応して、急遽11/28から12/1迄、米韓合同軍事演習が行われることとなったが、中国漁船衝突事件をめぐる官房長官や国交大臣の問責決議にこだわる野党には、政権交代の方が一大関心事らしく、国民感覚とのズレを感じる。国会は26日、衆参とも全会一致で「北朝鮮に対する非難決議」を可決したが、それのみで政治責任をあたかも済ませたかのように見えることも腹立たしい。
 今回の事態は、毎年来る台風や、10年に一度ほどの大地震へ備える程度にも、脅威がないと言えるのだろうか。現実にミサイルが落ちてから「政府の対応責任を追及する」、などと野党がもし言うなら、何も高い報酬で平和ボケした議員に国の将来を信託する意味はない。同様に、「起こってもいないことに民衆の不安を煽る議論をするのは・・」、などと国会答弁を回避していられる事態でもないはずだ。
 ミサイルが実際に落ちた場合の被災者の医療ネットワーク、原子力発電所周辺の住民避難、在日朝鮮人への暴行阻止、我が国の専守防衛の国際アピールなど、素人でも考えられるいくつもの懸案事項がある。自衛隊や警察や消防の連携が実際検討されているのか、あるいは指示しているのかも気になる。会期を延長するなら国防議論の方が優先されるべきなのではないのか。被害を最小限に抑えるための努力に与党も野党もない。
 首相は、軍事演習が終了するまでの間、全閣僚を都内で待機させ、緊急事態発生時には1時間以内に所管省庁に登庁することなどを指示した。それだけなら、何をかいわんやである。
 「予想外の事態だった」とは、十分な備えと検討をなしたもののみに許される言い分である。

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中国漁船衝突事件

 9月7日に起きた中国漁船衝突事件のビデオが11月4日インターネットに流れて大騒ぎである。海上保安庁は国家公務員法の守秘義務違反で刑事告発するらしい。
 情報提供者が誰かよりも、内部情報の管理体制がどうなっているかよりも、「なぜ、インターネットに流したのか」が気になった。そして、情報提供は、日常的な領海警備の危険性を生身に経験するなど熟知していて、中国漁船のエスカレートする行動にどう対処すべきかの決断を下せない上司や体制に業を煮やした結果からの行動ではないのか、と想像した。
 衝突ビデオは11月1日に30人ほどの国会議員に公開された。明らかに中国側から、故意にぶつかってきているビデオであると議員は公言していた。国民に公開すべきと主張する議員もいた。しかし、政府は、「国民の反中感情をあおることになる」として、「公開してはいけない」との方針をとった。
 たしかに反中感情は高まるだろうが、中国国内での反日行動のようになるだろうか?。現に、衝突映像が流れ4日経ったが、「情報の流れたこと」が大騒ぎになったのであって、反中行動があおられたりしてはいない。日本人の理性を政府関係者は見くびっているのではないのか。
 領海侵犯という事実を言うだけでは、国民に説明したことにならない。現場に死者が出るような事件にエスカレートすれば、更に悲劇的な日中関係につながりかねないのだから、マスコミも現場実態や流れ出た背景の報道にもっと力を入れるべきだと思う。
 領海を監視する現場の生の声が国民に聞こえないまま、つまり、「実態」が国民に知らされないまま、関係者が、「穏便な対応」を模索し、「抗議」以外の対応が出せず、中国の行動がエスカレートしていくことが怖い。
 国民へどう周知するかの対応を蔑ろにしたまま、管理体制だけを強化することは更に危険である。御身大切と権勢におもねる者たちを増長させ、真実がますます国民から遠くなるからだ。
 政府が対応を決め、国民を先導しなくとも、非暴力の抗議行動を日本人はとるであろう。衝突ビデオを見せて「あなたはこの事実に、日本人としてどう対応をしますか」と聞いてみれば、多くの国民は多少の不便は覚悟の上で、「中国製品は買わない」などと言うのではないのか。中国からのリアクションを恐れる団体に迎合する必要もない。中国への対応は国民が決める。政権交代したはずの政党にも国民の声は届いていないことを露呈した事件となった。

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君が代

  昨今の、覇権的な周辺国の動きの中で日本をどう守っていくのかという議論には、国家」の名の下で日本を動かしている(た)のは誰なのかを見定めながら、国民に重大な被害が起きたときの「責任」の所在を明らかにする仕組みを、きちんとつくっておくことが重要だと思う。
 「責任感覚が、国民常識と全く異質な宇宙人総理が出現する時代に、責任の所在が曖昧なままの政治・官僚システムが存続し続けることは、国そのものの存亡に関わることである。公共観念より個人志向を優先する公務員が蔓延する現代にあっては、「国家」が「国民」を監視するのではなく、「国民」が「国家」を監視できるシステム作りが優先されるべきであろうし、例えば、裁判員制度はその国民意思の一つの現れでもあろう。
 そんな時、「もともと『君が代』は天皇家を讃える詞ではなかった」とする亡父の友人の投稿文を見た。以下はその一部抜粋である。
 「君が代」の歴史経緯を知ることは、現在、それがどう使われているかと比較することで「国家」とは何かを考えるのに役立つ。「国家観念」のまだ確立していなかったであろう140年前の日本人の「君が代観」を、参考サイトも見ながら考えさせられている。
参考サイトhttp://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20091106/1257470616
 明治維新後、軍楽隊を創るに当って、宮中警護に充たる為に交代で上京させていた薩摩藩の兵から隊員を募集し、英国公使館警護軍楽隊の隊長ジョン・ウイリアム・フエントンの指導で西洋音楽を教えた。
 フエントンから、「西洋の諸国には国歌というものがあるが、日本にはどんなものがあるか、相応しい詞があるならば譜を付けてあげよう」となったが、藩を代表するような民謡はあるが、国の歌となると聴いたことがない。
 練習生であった江川与五郎なる者が、薩摩から護衛兵を引率して来た砲兵隊長の大山巌に事情報告し、その場に居合わせた宮中警護親衛隊長の野津鎮雄と薩摩藩少参事大迫喜右衛門(貞清)、薩摩藩兵隊長の河村純義の四人を交えて相談した。時に明治二年十月ころであったという。
 相談はフエントンが言うように、これからの日本はヨーロッパ諸国並みに国歌が必要だと云うことで一致し、国歌となれば古い歌から選んだらどうかという運びになった。大山巌がこれに因んだ提案をし、全員が賛成した。
 「私は常日頃、琵琶歌の「蓬莱山」を歌っているがその中の紀貫之らが「古今和歌集」から撰した日本最初の勅撰歌集「君が代」が最も相応しいと思う」
 蓬莱山は薩摩の種子島の祭礼の時等に歌われてきたものである。大切な人の長寿を祝う歌、世の中が末長く安泰であることを祝い喜ぶ歌として愛唱されて来たもので、皇室の弥栄を讃えるだけのものではなかった。
 早速フエントンは通訳の原田宗介が愛唱していた「武士の歌」の旋律を参考に西洋音楽にはない、日本風の旋律にした。だが日本の感覚に合わず、明治九年に廃止された。明治十三年になってから海軍が他国との国歌の相互演奏の都合上、宮内省式部寮に依頼状を提出、雅楽課は「君が代」に最も相応しい作曲を命じられた。
 楽譜改定委員は、海軍軍楽長中村祐庸・陸軍軍楽長四元義豊・宮内省雅楽部兼海軍省御雇音楽教師のドイツ人フランツ・エツケルトであった。最初、林広守の撰で「壱越調律旋」と云われる楽譜が採用された。楽譜は宮内省雅楽課の林広季と奥好義の合作によったと云われている。それにエッケルトが和声を付けて作曲した。東京音楽学校教師のデイートリッヒによって多少の修正がなされ、漸く明治十三年十月二十五日完成したのが現在歌われている「君が代」の始まりである。
 そして、国歌として、国からの強制を受けないまま、民間側からあらゆる機会に演奏され歌われ始めた。当初は二回繰り返していたが、明治十五年の式典から一回と定められた。
 明治十四年「小学校唱歌集初編」
一、君が代は ちよにやちよに さゞれいしの 巌となりて こけのむすまで
  うごきなく 常磐かきはに かぎりもあらじ
二、君が代は 千尋の底の さゞされいしの 鵜のいる磯と あらはるヽまで
  かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる

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業(ごう)

 義母が50年以上前に植えたという栗の実は、道路工事の際に、支障木として役場に売り払うまでになったが、管理余裕幅内にあるため、伐られずに残った。今では、15mもあろうかという巨木に成長している。10月下旬といえば、例年なら、とっくに栗拾いを終えている時期だが、今年は、長すぎた夏のせいか、最後の実をまだパラパラと落としていた。
 見事なその木は走行車両からもよく見え、道路脇に車を止めて実を拾う人が絶えない。今の家から直線で50m程離れているが、木は道路の斜面の下にあるので、道沿いに行くなら200mも下らねばならない。拾っている人は家からは直接見えないので、枝を叩く棒先が見えたり音がすると、義母は気が気でない。不自由な足を引きずり、“盗人”が見えるあたりまで道を下って、「枝を傷めるな」「うちの栗だ。とるんでない」と叫ぶらしい。「もう、この家の栗の木ではないのだから」と諭しても、てんで聞く耳を持たない。
 今年は、豊作で、実も大きく、虫も食ってはいないというので、義父の介護老健施設の下見に行った日の午後、拾いに行ってみた。
 木に付いたままの“イガ”は、大方は白い内肌を見せて実を落としていたが、枝張りも20m近くあろうから、相当な数の実が成ったはずだ。
 足下をよく見ながら歩き回ると、いつの間にかカゴに100粒ほどもとれた。拾っているうちに、ボトンとイガが落ちたり、パランと実が落ちたり、道路へ向かう斜面を転がったりする。落ちる音に視線が間に合えば、下草の揺れたあたりに見当が付くので、半分は見つけることができる。ほぼとり尽くした後、一度家に帰り、数時間経って、拾いに戻ると、またそこそこにとれる。行く度に誰かが拾っているのが気になってくる。
 朝早くなら誰もいないだろうと、翌朝6時過ぎに行くと、既にカゴを一杯にしている爺さんがいた。夕方まで2度ほど出向いた。義母は“諭していた”はずの私を呆れ顔で見ている。
 帰札する次の日の朝はまだ薄暗いうちに出かけた。暗くて数個しか見つけられないでいる時に、昨日の爺さんがやってきた。私の心根を顔色に見たのか、止めかけた車のアクセルを踏み込んで去った。
 別に高価なものではない栗の実ではあるが、おもしろがって拾っているうちに、いつの間にか、私の心は義母とつながっていた。それを言うと、婆さん(=義母)は「それ見たことか」というふうに笑った。人は業に生き、業に苦しむ動物であることを実感するのであった。

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