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碧濤のひとりごと

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業(ごう)

 義母が50年以上前に植えたという栗の実は、道路工事の際に、支障木として役場に売り払うまでになったが、管理余裕幅内にあるため、伐られずに残った。今では、15mもあろうかという巨木に成長している。10月下旬といえば、例年なら、とっくに栗拾いを終えている時期だが、今年は、長すぎた夏のせいか、最後の実をまだパラパラと落としていた。
 見事なその木は走行車両からもよく見え、道路脇に車を止めて実を拾う人が絶えない。今の家から直線で50m程離れているが、木は道路の斜面の下にあるので、道沿いに行くなら200mも下らねばならない。拾っている人は家からは直接見えないので、枝を叩く棒先が見えたり音がすると、義母は気が気でない。不自由な足を引きずり、“盗人”が見えるあたりまで道を下って、「枝を傷めるな」「うちの栗だ。とるんでない」と叫ぶらしい。「もう、この家の栗の木ではないのだから」と諭しても、てんで聞く耳を持たない。
 今年は、豊作で、実も大きく、虫も食ってはいないというので、義父の介護老健施設の下見に行った日の午後、拾いに行ってみた。
 木に付いたままの“イガ”は、大方は白い内肌を見せて実を落としていたが、枝張りも20m近くあろうから、相当な数の実が成ったはずだ。
 足下をよく見ながら歩き回ると、いつの間にかカゴに100粒ほどもとれた。拾っているうちに、ボトンとイガが落ちたり、パランと実が落ちたり、道路へ向かう斜面を転がったりする。落ちる音に視線が間に合えば、下草の揺れたあたりに見当が付くので、半分は見つけることができる。ほぼとり尽くした後、一度家に帰り、数時間経って、拾いに戻ると、またそこそこにとれる。行く度に誰かが拾っているのが気になってくる。
 朝早くなら誰もいないだろうと、翌朝6時過ぎに行くと、既にカゴを一杯にしている爺さんがいた。夕方まで2度ほど出向いた。義母は“諭していた”はずの私を呆れ顔で見ている。
 帰札する次の日の朝はまだ薄暗いうちに出かけた。暗くて数個しか見つけられないでいる時に、昨日の爺さんがやってきた。私の心根を顔色に見たのか、止めかけた車のアクセルを踏み込んで去った。
 別に高価なものではない栗の実ではあるが、おもしろがって拾っているうちに、いつの間にか、私の心は義母とつながっていた。それを言うと、婆さん(=義母)は「それ見たことか」というふうに笑った。人は業に生き、業に苦しむ動物であることを実感するのであった。

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