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碧濤のひとりごと

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君が代

  昨今の、覇権的な周辺国の動きの中で日本をどう守っていくのかという議論には、国家」の名の下で日本を動かしている(た)のは誰なのかを見定めながら、国民に重大な被害が起きたときの「責任」の所在を明らかにする仕組みを、きちんとつくっておくことが重要だと思う。
 「責任感覚が、国民常識と全く異質な宇宙人総理が出現する時代に、責任の所在が曖昧なままの政治・官僚システムが存続し続けることは、国そのものの存亡に関わることである。公共観念より個人志向を優先する公務員が蔓延する現代にあっては、「国家」が「国民」を監視するのではなく、「国民」が「国家」を監視できるシステム作りが優先されるべきであろうし、例えば、裁判員制度はその国民意思の一つの現れでもあろう。
 そんな時、「もともと『君が代』は天皇家を讃える詞ではなかった」とする亡父の友人の投稿文を見た。以下はその一部抜粋である。
 「君が代」の歴史経緯を知ることは、現在、それがどう使われているかと比較することで「国家」とは何かを考えるのに役立つ。「国家観念」のまだ確立していなかったであろう140年前の日本人の「君が代観」を、参考サイトも見ながら考えさせられている。
参考サイトhttp://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20091106/1257470616
 明治維新後、軍楽隊を創るに当って、宮中警護に充たる為に交代で上京させていた薩摩藩の兵から隊員を募集し、英国公使館警護軍楽隊の隊長ジョン・ウイリアム・フエントンの指導で西洋音楽を教えた。
 フエントンから、「西洋の諸国には国歌というものがあるが、日本にはどんなものがあるか、相応しい詞があるならば譜を付けてあげよう」となったが、藩を代表するような民謡はあるが、国の歌となると聴いたことがない。
 練習生であった江川与五郎なる者が、薩摩から護衛兵を引率して来た砲兵隊長の大山巌に事情報告し、その場に居合わせた宮中警護親衛隊長の野津鎮雄と薩摩藩少参事大迫喜右衛門(貞清)、薩摩藩兵隊長の河村純義の四人を交えて相談した。時に明治二年十月ころであったという。
 相談はフエントンが言うように、これからの日本はヨーロッパ諸国並みに国歌が必要だと云うことで一致し、国歌となれば古い歌から選んだらどうかという運びになった。大山巌がこれに因んだ提案をし、全員が賛成した。
 「私は常日頃、琵琶歌の「蓬莱山」を歌っているがその中の紀貫之らが「古今和歌集」から撰した日本最初の勅撰歌集「君が代」が最も相応しいと思う」
 蓬莱山は薩摩の種子島の祭礼の時等に歌われてきたものである。大切な人の長寿を祝う歌、世の中が末長く安泰であることを祝い喜ぶ歌として愛唱されて来たもので、皇室の弥栄を讃えるだけのものではなかった。
 早速フエントンは通訳の原田宗介が愛唱していた「武士の歌」の旋律を参考に西洋音楽にはない、日本風の旋律にした。だが日本の感覚に合わず、明治九年に廃止された。明治十三年になってから海軍が他国との国歌の相互演奏の都合上、宮内省式部寮に依頼状を提出、雅楽課は「君が代」に最も相応しい作曲を命じられた。
 楽譜改定委員は、海軍軍楽長中村祐庸・陸軍軍楽長四元義豊・宮内省雅楽部兼海軍省御雇音楽教師のドイツ人フランツ・エツケルトであった。最初、林広守の撰で「壱越調律旋」と云われる楽譜が採用された。楽譜は宮内省雅楽課の林広季と奥好義の合作によったと云われている。それにエッケルトが和声を付けて作曲した。東京音楽学校教師のデイートリッヒによって多少の修正がなされ、漸く明治十三年十月二十五日完成したのが現在歌われている「君が代」の始まりである。
 そして、国歌として、国からの強制を受けないまま、民間側からあらゆる機会に演奏され歌われ始めた。当初は二回繰り返していたが、明治十五年の式典から一回と定められた。
 明治十四年「小学校唱歌集初編」
一、君が代は ちよにやちよに さゞれいしの 巌となりて こけのむすまで
  うごきなく 常磐かきはに かぎりもあらじ
二、君が代は 千尋の底の さゞされいしの 鵜のいる磯と あらはるヽまで
  かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる

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