2012/03/29 Category : エッセイ 責任社会 社会保障と税の一体改革が「待ったなし」の緊急事態と叫ばれるが、それと表裏一体のはずの事業仕分けや特別会計、独立行政法人の整理が先送り事項に“仕分けられ”てしまうのではあるまいか。大切なことが記憶の片隅に押し遣られ時が過ぎていく。 中学生の頃、植木等主演映画「無責任男」シリーズを見ては笑い転げた。あの映画がなぜ流行ったのかを考えると、当時の世相の裏返しだったような気がする。戦前派、戦中派、戦後派の価値観が混在する中、高度成長で急激に変化する社会。そんな中にあって、気楽なサラリーマンに思いを馳せる、まじめなサラリーマンたちのつかの間の“はけ口”が、無責任男シリーズだったのではないか、という意味だ。 それに引き替え、現代はいわゆる“要職”にある人たちの無責任が目に付く。衆院財務金融委員会に参考人招致されたAIJ投資顧問社長の答弁も呆れるが、原発事故で浮き彫りになった電力会社、政府、学会の要職にある者の薄っぺら責任感覚は、映画の無責任男を凌ぐほどだ。だからこそ、簡単に、要職者の言葉を真に受けるわけにはいかない。 がれきの引き受け要請もそうだ。地域が引き受けてしまえば「♪ ハイ それまでョ ♪」で終わりではないか、の不信が消えない。「丁寧な説明」と言うなら今こそ公開討論会等で住民に説明を尽くすべきだ。公開討論会で民意を得るという方法を国はプルサーマルでは実施してきたではないか。万一の被害は膨大な数の住民に及ぶのだから、議会や首長の了解を得るだけでは済まないはずだ。放射能汚染までを「痛みの分け合い」という美名の下で、全国各地にばらまいてはならない。 不法投棄は止まず、安定でない廃棄物が入り込み、硫化水素の発生や地下水汚染を引き起こしてきた安定型産業廃棄物最終処分場を思い起こせばよい。日本弁護士連合会は安定型産業廃棄物最終処分場の新規着工を認めないよう環境省に意見書提出を行ったが、抜本的対策はとられないまま今に至る。がれきの中に大量の放射能が検出されても、「検査基準の強化で対応します」などとされて終わりとされる懸念は消えない。 東日本大震災被災者の「決してあきらめない」挑戦を、良識国民の責任社会構築への闘いとして昇華継続していかなければ、日本そのものの未来も失われてしまうような気がする。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword