- 2024/11/27
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生活に緊張感を持たせるため、月に一度ほどブログを更新しています。 最近は腹立たしくも悲しい出来事が多すぎ、 そんな思いからのブログです。
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サハリン再訪(トマリ編)
・・・なお、現地の日本人はルーブルを円と言っていたため、そのまま記載している
ゴールデンウイークの帰省ピークを迎えようという函館と札幌間の列車は当然満員だった。指定席が取れないので、仕方なく比較的空いていた指定車両の昇降口に紙を敷いて座った。サハリンから帰った日は子どもの日、乗車間際に買った缶ビールを飲みながら、旅の先々で温かく受け入れてくれた人たちの好意を噛みしめているうちに長万部に着いた。
私の乗った車両は花見帰りの団体客で一杯だった。出入り口付近のボックス席の三人が降りたので、図々しくもあったが空席の一つに座らせてもらおうとリュックサックを下ろすと、一人残った若い女が不審そうに声をかけた。
「この席は座席指定ですけど」「誰も座っていないのに札幌まで座席指定なのですか」
「そうです」旅の仲間と思われる通路隣席の初老の女達も額く。
仕方なく元いた場所に戻ると、ふと25年ほど前の学生時代の旅行が思い出された。あの時は、仲間と共に指定席券を昇降口に立っていた人に渡しながら下車したものだった。しかし、日本に帰る前日に立ち寄ったサハリン残留日本人の事務所で、ロシアの高額紙幣を自分の子どもへの土産代わりにすると言ってしまった私に人のことを言う資格はない。その時事務所にいたおばさんたちの驚きの顔を私は決して忘れることはないだろう。繁栄という心地よい言葉に酔っているうちに、知らず知らず私たちの心は病んできてはいないだろうか。
函館を4月28日の午後5時に飛び立ったアエロフロートのアントノフ24(32人乗り)には白人3人を含む28人が乗り込んでいた。晴れかけていた天気も出発の頃には再び曇り、風も出てきたので少し不安ではあったが、上空はほとんど揺れなかった。一面の雲海の中を飛び続けているため、今どこを飛んでいるのかも分からず、退屈しのぎに食事時に出されたレモンウオッカをお代わりして、少し酔ったかなと思っているうちにユジノサハリンスク空港に着いた。
今回は一人旅。一昨年、昨年に知り合った人たちを訪ねながら、現地に暮らす一般の人たちは現状をどう感じているのか、日本をどう見ているのか、自由とは何か、貧困とは何か、私たちに何ができるのか、日常の些事を離れて見つめてみたい旅だった。
呉さんの住むトマリ(泊居)までは、通常ユジノサハリンスク(豊原)から西海岸のホルムスク(真岡)に抜け北上するルートをとるが、ホルムスクとチェーホフ(野田)間が雪崩のために不通となっており、今回はユジノサハリンスクから東海岸を北上し、西海岸のイリンスキー(久春内)に抜け南下するルートをとった。
ユジノサハリンスクから約一時間、オホーツク海側のドリンスク(落合)を過ぎるとウズモーリエ(白浦)へつながる海岸線は、びっしりと流氷に覆われていた。ワゴン(寝台車)に同席したのは気の良い鉄道員のバルチャン(48歳)と会話集をどんなにひっくり返してもついに最後まで職業の分からなかった○○見習工のリトビウム(20歳)。バルチャンが持ち込んだウオッカとハム、キュウリの漬け物、中国産の小さいリンゴを勧められるままに頬張り、会話集を片手に話しているうちに5時間は過ぎて夕焼け時のトマリに着く。ワゴン車内で撮った写真を必ず送ると約束しながらチェーホフまで行く彼らと別れた。
トマリは人口約1万人、入り江を囲む人家が一塊になった小さな町だ。駅に降り立ったのは5月2日20時30分(日本時間17時30分)、到着時間は正確だった。
初めての土地は耳がかじかむほどに寒かったが、夕日に霞んでいる薄茶けた町を見ていると、幼い日にそこここにあった風景に出合ったようでとても懐かしい気持ちになった。
ワゴンが最後尾だったので、降り立った人の流れに従いながら、2年前に稚内で1度会ったきりの呉さんの顔を探した。彼と奥さんの顔はその時に写真を撮っていたので私の方は知っていたが、向こうの記憶に私があるという保証はなかった。20Kgのリュックを背負い、カメラもぶら下げているのだから、私の風体はどう見ても旅行者そのものだと思っていたが気づいたのは私の方だった。目の前に立って手を振るまで呉さんは私を必死に探していた。いかつい顔の呉さんの目が急に和やかになり、ともかくその夜の宿だけは確実になったとホッとした。
雪解けのわだちをうまく避けながら進む呉さんの弟の車に乗せられ、駅近くの彼の家に着く。狼のようなどう猛な番犬が2頭、歯をむき出して私を迎える。かじられてボロボロの閂を犬小屋に掛けながら、「早く家に入りなさい」という声に急かされ入り口の土間に滑り込む。
土間は間口1間、奥行き3間ほどの長方形で、奥には農具や作業着が壁に掛かり、右手には納屋が続き、戸のない便所が暗がりの片隅に見える。
土間の左側には簀の子が敷かれ、靴を脱いで仕切りの戸を引き中に入ると、イモの選別をしているらしい作業小屋の向こうがリビングルームになっている。
およそ20畳はありそうなこの広いリビングルームには、ペレストロイカ直後に買ったという大きなテレビがあった。「このテレビはソビエト製で壊れているのですが、泥棒よけのために窓の近くに見えるように置いているんです」つまり、日本製の高価なものはこの家には無いのだということを暗に泥棒に知らせているというわけだ。
「2月7日の夜中2時頃にも近所でマフィアの喧嘩がありましてね。地元のマフィアは4人が入院、大陸から来たマフィアは3人のうち1人が死亡しました。4時頃にヘリコプターが飛んできて大陸のマフィアを運んでいきましたが、どこのヘリコプターなのか、どこに運んだのか今も分からないままなのです」
呉さんは子沢山である。自分が建築大学へ行ったため長女は建築、次女は電気、三女は経済(卒業後、法学部に再入学)を専攻。四女と長男はアムール州にあるグラゴヴェーシェンスク国立医大に通っているというインテリ一家だ。
「私の夢は、子どもたちを大学まで出した後、妻と二人で悠々自適の生活をすることでしたが、今は明日のことも分からない状態です。商売人や大会社で勤める人は別にして、旋盤工や大工、左官工などの勤め人たちは仕事をしたくてもその仕事がないのです。稼いで飲むことを日々のたのしみとしている彼らに商売はできません。これが資本主義なら、資本主義とは地獄だと彼らは言っています」
彼は、建材ブロック会社の技師長を勤めていたが、93年に仲間23人で国家から工場を買い取り、株式会社(国保有株49%)を設立し、最盛期には従業員102人を使い90m3/日の建材パネルを生産していたという。今は代表権を長女に譲っているが、税金が高すぎ、また値段を高くするとブロックは売れないので赤字幅を減らすために工場を閉鎖している。保有している株式51%を国が買ってくれることを希望しているが、野ざらしにされた建物、重機類、ブロックにも税金(3%)が掛かっていることを聞くと彼の無念さが分かるような気がした。
「ゴルバチョフがペレストロイカを言い出す前の日まで、衣食住については何ら不足はありませんでした。設備投資に金のかかる自動車など重工業製品は足りませんでしたがね。」「ソ連時代は250円*1の給料でパン(750g)22銭、ウオツカ1本2円42銭、ニシン1Kg40銭、マス1Kg60銭、バター1Kg3円40銭でした。カルパスは16種類もありました。どこの家庭でも土曜、日曜には海や山へ行き、のんびりと暮らしていたものです」。
暮らしぶりは、特にエリツィン時代に入ってから落ち込んだという。91年に入りバルト3国が独立したこと、産業界の首長を選挙制にするとしたので反発した首長が相次いで辞めたこと、労働者が理由なく仕事を休めば収監するという法律を廃止したことなども経済の落ち込みには関係したようだ。
呉さんの工場でも、この法律が廃止された11月の給料日の翌日には、労働者74人の内9人が、3日後には42人が出勤しなかったという。
トマリには、製紙工場、ブロック工場、家具工場、乳製品工場、ビール工場、建築会社などがあるが、私が訪ねた5月初めは、公共施設関連会社のほかは乳製品工場とビール工場が30%程度稼働していたのみで、他は休止状態であった。
トマリで一番給料の高いのは、カンビナート・カンムナリニフ・ウスルーギという公共施設の整備維持をしている会社の職員で、草刈りの労働者が20万ルーブル*2(以下Rと略記)、ボイラーマンは70万R、社長は120万Rほどという。
物価は、バナナのように日本で買うよりも高い物もあるので、ルーブルの価値がどれほどなのか、なかなか実感は湧かないが、食料品に限って言えば米880R/Kg、リンゴ1,600R/Kg、イモ500R/Kg、豚肉6,000R/Kg、牛肉3,900R/Kg、ウオッカ4,000R/本という具合である。ちなみに年金生活者は最低5万Rから最高15万R程度であるから生活は当然苦しい。
翌日は快晴だった。トマリのまちが一望できる墓地に連れていってもらった。
日本人、韓図人、ロシア人の墓が混在するその墓地の中に一つだけ見捨てられたような土盛りがあった。他の墓には囲いがあり、碑が建てられ一目でそれと分かるが、ただの土盛りはそこだけなので余計に目立った。
「この墓はね、今生きていれば80歳近い日本人のものです。いいオバさんでした。死んだ後は決して祭ってくれるな。花も上げないようにと言い残して死んでいきました。旦那さんが技術者だったものだから、戦後この土地にしばらく留め置かれましてね。小学生、中学生の子供もいたのだそうです」
「家が広かったものだから、ロシア兵の将校の宿舎も兼ねたのですが、この将校が主人を会社に追い出しては乱暴するようになり、引き揚げの時に旦那さんが泣いて一緒に帰ろうと言っても、“母親が何をされたのか子供はもう分かっているから自分は日本には帰れない”と一人残ったのだそうです。私がここで技師長をやっている時に工場で使ってくれと頼まれ、それから家族同然に付き合うようになったのですが、ついに最後まで自分のふるさとや家族の名前など明かすことはありませんでした」「ロシアでは墓の周囲を鉄格子で囲うのですが、自分が死んだら日本にいる子供を見て帰ってくるから囲わないで欲しいと言っていましたので、希望通りにしているのです」呉さんの説明に、今そこにいる自分の不思議を感じながら暫し彼女の冥福を祈った。
つい最近までこの国の生活はほとんど知らされていなかっただけに、なおさら交流の難しさを感じる。姉妹都市と称して乾杯交流、花束交流で終始しているうちは害はないが、経済交流のみに重点が置かれ、文化交流、人的交流が進まないと、価値観の相違からくる国家間の障害はますます大きくなっていくような気がしてならない。
今回の旅行中にも、ある宗教団体から現地の日本人に中古車が贈られた。新車同然のその車の日本での買値は220万円、正直な領収書だったが故に領収書を基にした税金は212万円にもなり、贈られた側は天文学的なその税金を当然支払えないということになった*3。仮に支払えても、車を壊されては元も子もないからマフィアが要求する金を払わねばならず、払いたくなければ力のある警察官でも連れてきてマフィアから車を守ってもらわねばならない。ただしこの場合でも仕事を休んでくる警察官に対して相当額を払う必要はある。
人道上の援助として、薬や教科書を贈る場合も、最終の目的地に届くまでのルートや手順、輸送費、運転手への謝礼などを考えなければならず、“港まで届けば、あとは向こうの市役所の方で喜んで何とかしてくれるだろう”というのは贈る側の勝手な思い込みに過ぎない。今回はユジノサハリンスクのほか、コルサコフ、トマリを訪ねたが、現地の人から直接生活の様子を聞くと、今そのものがまるで戦争直後の状態のように思えてならなかった。この冬の大雪はサハリンでもいろいろな弊害をもたらしたようだ。吹雪の日には特に泥棒が多かったとか、墓地までの除雪費がかかるため、死亡したことを秘密にして葬式をしない人が増えたとか、石炭が足りず1月と3月はアパートのスチームが止められ10℃もない部屋の中で過ごしていた人も大勢いたようだ。社会的底辺部の階層の人の中には、生活が苦しいにも関わらず、ろくに食べずに酒を飲むので障害を持つ赤ん坊の生まれる割合が高まっているともいう。
ペレストロイカが庶民に何をもたらしたのか、またなぜこうも急激に暮らしが落ち込んでいかざるを得なかったのか、どんな経済理論を振りかざしてみてもこの国の社会体制や社会通念等を無視して語れないであろう。そしてそれこそが我々が見落としてきた側面ではないのか。
日ロ交流の報道に触れる時も、いつの間にか日本側は正しく、無埋難題は常にあちらが押しつけてくるという基準で考えてはいないだろうか。知らず知らず自らの傲慢さから、見えないところで人を傷つけていることだってあるはずだ。
15年ほど前、ハバロフスクの駅のプラットホームに万年筆とガムをばらまき、それを拾う人をビデオで撮る日本人を観たという話を聞いた。「なぜ投げるのですか。手に渡して下さい」と近寄ってくる婦人の手にも、ビデオを撮りながら万年筆を渡していたという。彼らは婦人の話すロシア語も仕草の意味も分からず、無知と興味本位からそのビデオを撮ったのだろうが、帰国後何と話しながら同僚にその映像を見せたのかを想像すると心が暗くなった。こんなに苦しい状態で生活をしている人たちの家庭に図々しく泊まりながら、その好意に甘えて、この夏は中学生になった息子まで連れていくつもりでいる。ロシアという国の見えない部分の重さを再度噛みしめながら、次世代につながる交流をもう少し問い直してみたいからである(続く)。